エホバの証人の輸血をめぐる問題

 

<目次>

1 はじめに

2 エホバの証人の手術をめぐる背景

(1)   エホバの証人とは

(2)   輸血拒否理論の非合理性

(3)   麻酔科医とは

(4)   麻酔科医とエホバの証人のかかわり

同意書をめぐる問題

3 自己決定権

(1)   輸血拒否と自殺との異同

(2)   権利の主張には義務が伴う

4 輸血をめぐる訴訟事例

(1)   輸血を拒否する成年に達した男子の両親が輸血委任仮処分を申請した事例

(2)   輸血拒否患者に輸血した事例

5 最高裁判決をうけた上で残る問題

(1)   未成年者、意識不明者の問題

(2)   手術で問題となるケース

(ア)  不可抗力による大量出血

(イ)  外科医のミスによる大量出血

(@)外科医が輸血を依頼する場合

(A)外科医が輸血を拒否する場合

6 おわりに

 

 

1 はじめに

 

 聖書の教えを忠実に守りたいという教義により、輸血を拒否している人々がいる。「ものみの塔」聖書冊子協会の信者たちである。信者は「エホバの証人」の名で知られている。

日本に数万人いるといわれ、「輸血を強行すれば法律に訴える」と宣言している。

 彼等ほど特殊な主義主張を持った患者も珍しく、そのような患者にどう対応するか、医療従事者の倫理や法律に対する関心を高めた功績は大きい。いわば「エホバの証人」は医療の試金石であるとも言える。彼等の影響もあって、輸血を削減するための研究(人工血液、自己血輸血、希釈式自己血輸血、セルセーバーなど)が進んだという面も否定できない。

 しかしながら、多くの医療従事者にとって「エホバの証人」の扱いは非常に頭の痛い問題であって、他の患者にくらべて多大なエネルギーと時間を必要とし、よりストレスを感じる仕事となるのである。私は麻酔科医であり、これまで何人もの「エホバの証人」の手術に立ち会って来たが、そのケースごとに苦悩を深め、法学的な側面での検討の必要性を感じていた。今回これまで私が経験してきたことと、法学的に検討したことを記し、現在の私の方針を公表してご批判を仰ぎたいと思う。

 

2 エホバの証人の手術をめぐる背景

 

(1)   エホバの証人とは

宗教である以上、信じる者がいれば一方でその教義を非難する者もいる。客観的に公正な記述というのは難しいが、匿名にて「エホバの証人」の特徴を記したホームページ[1]がかつて存在し、比較的その内容が客観的であると思われたので、それを元に若干加筆したものを以下に記す。

@「エホバの証人」は「新世界訳」聖書という独自の聖書を持っている。

A「エホバの証人」は普通、比喩と考えられている悪魔や天罰を恐れている。

B「エホバの証人」は普通、比喩と考えられている聖書の中の奇跡を信じている。

C「エホバの証人」は、新訳聖書の慈悲深い神よりも、旧訳聖書の気紛れで怒りっぽい神を好む。

D「エホバの証人」はイエス・キリストの言葉と旧訳聖書の神の言葉に矛盾がある場合、無条件で後者を信じる傾向がある。

E「エホバの証人」は偏執的に輸血を嫌悪している。神が禁止した多くの行為の中で、特に血だけにこだわる傾向がある。「輸血されることは強姦されるに等しい」ことであると教えられている。

F「エホバの証人」は全血や濃厚赤血球の輸血は認めないが、他の多くの血漿成分輸血は認めている。ただし、血漿成分輸血を受けることは認めても、献血は許されない。保存された自己血輸血は認めないが、人工心肺など管でつながっている場合は許されると教えられている。

G「エホバの証人」は協会に絶対的権威を置いている。司法機関ですらその権威を越えることはない。

H「エホバの証人」は自分自身で考えることを「独立の精神」すなわち傲慢、独善であるとして禁止されている。

I「エホバの証人」は自分たちは神に選ばれた選民であると思っている。

J「エホバの証人」は自分たちの仲間を増やしたいと思っている。

K「エホバの証人」は自分の信仰を覆そうとするものは「悪魔の使い」だと信じている。

L「エホバの証人」は千年王国と世界の終わり(ハルマゲドン)を信じている。

M「エホバの証人」は現世の幸福より、天国での幸福を重要視する。それどころか現世で不幸なほど、天国に行きやすいと思っている。

N「エホバの証人」は他の宗教の存在価値を認めない。エホバとその教えを信じない人は親でも子でもない。家族にもそれを強制する。

O「エホバの証人」はエホバとその教えに疑問を抱くことを禁じられている。教えに背いた者との交際は禁止される。本人が知らずに輸血を受けた場合でも許されることはない。

P「エホバの証人」は末端信者には気が弱い善良な人、差別や障害や難病に苦しむ人が多い。新しく「エホバの証人」になろうという人は、末端信者の人柄にひかれてということが多い。

 結局のところ、「エホバの証人」が信じているのは、自分の仲間や指導者にすぎない。彼らが本当に恐れているのは、指導者からの弾劾や叱責であり、仲間からの村八分なのである。「エホバの証人」はハルマゲドンの恐怖におびえる、カルト宗教の洗脳(マインド・コントロール)された被害者でもある。

 これに対しては異なった見解もある。山田卓生氏は「輸血拒否の根拠は、理をつくした、ある意味では説得的なものであり、決して、狂信的なものではない」[2]と記している。

 私の経験からすると、手術の前に、最大限尊重はするがやむをえない場合には輸血をする方針であることを話してその場では納得された患者でも、あとで知人と称する人達に説得されて、輸血は絶対しない旨の承諾書にサインしなければ手術を受けないと翻意された例を何度も見ており、多くの信者は本心からではなく、やむを得ず輸血拒否を表明させられているのではないかと感じている。

 信教の自由は最大限尊重されなければならないが、医療を受けるにあたっては医療従事者との接触は不可避である。同じ宗教を信じる医療従事者のみが関与するのであればそれほど問題にはならないのかも知れないが、そのような病院は現在存在しない。「エホバの証人」患者を診療するにあたって、私達が納得できない教義の問題点を以下列挙する。

@     自分の信仰を家族(特にこども)にも強制する。

 これにより聖マリアンナ大学で輸血拒否小児死亡事件がおこった。これについては後述する。

A     赤血球輸血のみを拒否する理由が非合理である。 

これについての詳細も後述する。

B     医師の良心を苦しめる

「死んでも良いから輸血しないでくれ」というのは医師の職業倫理を否定することになる。いくら「免責書」をもらっても、良心のうずきが癒されるわけではない。

 

(2)   輸血拒否理論の非合理性

 「エホバの証人」の多くは、人工心肺、臓器移植、赤血球を含まない血液製剤の輸血は受け入れている。臓器移植には白血病の治療である骨髄移植も含まれているのであるが、骨髄には当然ながら赤血球を作り出す細胞が含まれており、出来たての赤血球も存在しているわけである。骨髄移植が許されるのに赤血球輸血が許されないとする理屈が全く非論理的である。

  1996年以来、医療機関連絡委員の一部を含むエホバの証人たちが、匿名で現在の輸血拒否の方針に疑問を表明し、その数は増加している。彼らは「血液拒否改革エホバの証人連合」を形成し、彼らの言葉によれば、矛盾と一貫性に欠ける複雑な規則に縛られた輸血拒否の方針が、聖書の根拠も明らかにされないままに厳しく施行されている状態に対して、内部からの改革を提唱している。[3]

 事実としてエホバの証人は過去において、ワクチンを輸血と全く同じ理由(すなわち「血の神聖を犯す」という理由)によって、忌避すべきことを信者に教えたが、三十余年後には同じ機関紙の紙面に正反対の主張をし、現在は認めているのである[4]。輸血についても同様に今後、方針が変更になる可能性は十分にあると考えられる。

 山田卓生氏は伝聞として、オーストラリアでは輸血拒否は不合理だから、拒否者にも輸血してよいとする考え方をとっているといわれると記しているが[5]、私が調べた限りでは残念ながらそのような事実はない。オーストラリアの麻酔科医も同様に苦悩しているようである。[6]

 

(3)   麻酔科医とは

実際には専門以外の分野を看板に書く医師はほとんどいないが、法的には医学部を卒業して医師免許を取得した者であれば、誰でも「内科」とか「外科」という看板を勝手に掲げることが可能である。
 しかし、「麻酔科」だけは例外である。麻酔は非常に専門性の高い技術であり、一歩間違えれば生命に直結する手技であるため、決められた病院で通 常2年以上の研修を受け、厚生省の医道審議会である「麻酔科標榜資格審査会」で認められた者しか「麻酔科」の看板を掲げることはできない。この資格を「麻酔科標榜医」という。医師には麻酔も含めて治療上必要な処置を行うことが許されているが、麻酔科を正式に名乗るためには麻酔科標榜医である必要がある。

麻酔科医の役割は多岐にわたるが、手術室での業務は麻酔を施行し、手術中、患者の管理の責任者となることである。薬品や輸液、血液の使用は麻酔科医にすべて任されている。術者は手術に集中し、とてもその他のことを配慮する余裕がないからである。したがって、通常エホバの証人が輸血をしない旨の同意書(免責書)に署名を求める場合、手術後の管理をする外科医とともに、手術中の管理をする麻酔科医も対象とされるのである。

 

(4)   麻酔科医とエホバの証人のかかわり

同意書をめぐる問題

 東大医科研付属病院での無断輸血にたいする最高裁判決が出る以前の私の方針は以下の様であった。

 (@)大量出血の可能性が低い場合 可能な限り輸血を避けるがどうしても必要になった場合にはあらためて御家族に承諾を求める旨説明し、納得してもらった時は、免責書には署名せずに麻酔を施行。それでは納得できないという場合には、その手術をこちらの病院でしてあげたほうが患者のためになると判断した時のみ免責書に署名・捺印し、そうでなければ転院していただく。しかし、免責書に署名・捺印した場合でも、どうしても必要な時には輸血するつもりであった。

 (A)大量出血が予想される場合 可能な限り輸血を避けるがどうしても必要になった場合には輸血するという方針を説明し、納得されない場合には転院していただく。

 しかしながら、免責書に署名・捺印した場合に、教団内部でこのように教義に賛同してくれる医者がいるとして布教活動に使用されるとする情報提供があり、また最高裁判決で賠償命令が出たこともあり、免責書への署名・捺印はいっさい行わないことに変更した。

 エホバの証人が常に持ち歩く「医療上の事前の宣言および免責証書」の問題点は2つある。まず、自発的な自由な意思に基づいて署名されたのかが大いに疑わしい。毎年1月にエホバの証人全員に新しいカードが配布され、グループミーティングの中で指導者の監督下、全員が署名することを強制されているという事実がある。第二に、輸血の害のみを誇大に吹聴して、輸血に対する過度の恐怖心を植え付けるのみで、輸血の利点についての説明を受けないままに署名している点である。

 患者本人が未成年の場合に、親権者が提出する免責書の場合も同様な問題がある。実際に1985年6月に、交通事故で両足を轢過された10歳の少年が、両親の信仰上の理由による輸血拒否のため死亡するという事件が聖マリアンナ大学でおこった。警察は医師について保護責任者遺棄致死罪(刑法219条)の成否を検討していた。[7]

 

3        自己決定権

 

(1)   輸血拒否と自殺との異同

 自殺は罰せられないが、原則的には違法と考えられる。もし「エホバの証人」の輸血拒否が自殺の部類に入るならば、違法な行為への自己決定となり、それは法的に承認されず、医師はその意思に反してでも輸血をすることができるし、むしろ輸血することを義務づけられることになる。尊厳死の場合が不治の末期状態における過剰な延命措置を否定して自然の死を求めるのとは異なり、輸血を受ければ生き続けることができるのであるから、尊厳死とは異なり、かなり自殺と類似しているといえる。

 しかしながら石原明氏は、本質的には自殺とは区別されるべきものであると主張している。その理由として、彼らは常に、輸血以外のあらゆる医療努力によって救命されることを望んでおり、神の教えに忠実であらんがためのそれとして、許される自殺の範疇に入り、そのような特別例外的な場合には、法規範の観点からしても許された、違法でない自殺ということになるとしている。[8] また氏は義務衝突の法理を適用することを主張している。「義務衝突の法理では、より重い義務を履行するために軽い義務が不履行になった場合、その不履行による侵害結果については違法性が阻却される。そしてその衝突する義務の重さが同じかまたは比較困難である場合においても、違法性が阻却されるものと考えたい。」としている。すなわち、医師が救命義務を優先して輸血しても法的責任はなく、輸血拒否の意思を尊重して患者が死亡しても保護責任者遺棄致死罪(刑法219条)や不法行為(民法709条)の責任は生じないとするものである。医療サイドにとっては都合のよい理論であるが、結局のところ医師はそのどちらを取っても免責されることになり、それではどちらをとるべきかの基準が示されない、もしくは医師の裁量に委ねてしまうことになるという批判もある。

 

(2)   権利の主張には義務が伴う

 医療侵襲が生命の維持ないし延長にとって必要不可欠であり、医療効果が歴然としている場合に、なお、患者の自己決定権を認めるべきか否かが問題となる。判例は、生命、健康の維持・増進という医学上の立場からは、患者の承諾がなければ手術できないというのでは「不合理」であろうが、患者がはっきり拒否しているかぎり「医学上の立場」は否定されなければならないとして、同意原則の貫徹を強調している。(舌癌事件、秋田地裁大曲支部判決昭和48年3月27日)[9] これに対して大谷實氏は西ドイツ1962年刑法改正草案にあるような立法的解決が望ましいとしている。その内容は「その者が少なくとも、医師が彼に何らかの治療を行うこと、および、侵襲がなされるべき場合に何らかの侵襲を行うことを承知しており、医学上の知識と経験によれば、その者を死の危険または身体・健康の著しい損傷から防ぎ守るためには、その治療が必要であり、十全な説明がその者に精神的に重い負担となり、それにより治療の結果が甚だしく侵害されると予測される場合は、個々の同意がなくても専断的治療行為にならない」というものである。[10] 残念ながら、日本ではそのような立法措置がとられることはなさそうである。

 近年、患者意識の向上によりインフォームド・コンセントが強調されている。しかしながら医療現場では理想と現実のギャップに日々悩まされているというのが偽らざる実感である。例えば、麻酔の方法についての説明と選択という問題がある。医療行為に「完全・絶対」ということはあり得ないわけであり、全てに利点・欠点が存在する。全身麻酔と下半身麻酔(脊髄麻酔・硬膜外麻酔)の利点・欠点を説明した上で、「ではどちらを選びますか」と選択を促すと、たいていの場合に患者は「先生が良いと思う方法にして下さい」と答えるのである。これは本能的に、選択したからにはそれに伴うリスクは自分で責任を負わねばならなくなるから選択を回避したほうが得策であると判断しているのではないかと推測される。裏を返せば、医者にすべて任せた以上は不都合な合併症が出た場合には全て責任をとってくれという意識であろうと思われる。私の経験では、これはエホバの証人の場合にもあてはまるので、輸血拒否の一点を除いては、少なくとも日本においてはエホバの証人だから権利意識が強く自己決定能力が高いとは言えないと考えている。まだまだ日本人は権利の主張には義務が伴うことを理解していないのではなかろうか。

 

4        輸血をめぐる訴訟事例

 

(1)   輸血を拒否する成年に達した男子の両親が輸血委任仮処分を申請した事例

事件の概要は、Y(妻と9歳、7歳、6歳の子を有する成人男子)は左大腿骨の骨肉腫でA医大整形外科に入院中であったが、骨肉腫は放置しておくと他の部位へ転移して死の転帰に至る可能性が高いため、担当医BYに対して、早期の左足切断手術が骨肉腫の転移を防ぐ最善かつ確実な方法である旨説明し、右手術を受けるように勧告した。Yは右手術の必要性を理解し、Bに対しその実施を強く希望したが、同時に右手術にともなって必要とされる可能性のある輸血の実施については、骨肉腫になってから帰依した「エホバの証人」の教義に基づき、これを拒否した。そのためA病院では、Yが輸血を承諾しない限り手術を行わない方針をとり、放射線療法や化学療法による治療を行いつつ、輸血を受けるようBらがYへの説得を続けていた。なおYは精神状態や判断能力において、通常人と異なるところはなく正常であり、輸血以外のすべての治療法を受けることを強く望んでいた。

Yの両親たる本件債権者Xらは、Yが輸血を拒否していることを知って以来、輸血を受けるようYへの説得を続けた。しかし、Yの決意は固く、またYの妻もエホバの証人の熱心な信者であり、Yの輸血拒否を積極的に支持し激励しているため、結局説得することができず、今後も説得の可能性がない、と判断するに至った。そこでXらは、「Yの父母として、Yの自殺同然の行為を排除し、Yを看護し、その生命、健康を擁護する法律上の権利を有している」として、右権利を保全するため、Yに代わりA医大病院に対し右脚切断手術およびそのために必要な輸血等の医療行為を委任することができる旨の仮処分を申請した。

裁判所は、仮処分申請を却下した。Yは、正常な精神的能力を有する成人であり、輸血以外の切断手術を含む他のあらゆる治療を受け、その完治、生命維持を強く希望しており、本件輸血拒否行為を、単純に生命の尊厳に背馳する自己破壊行為類似のものということはできないとし、Xの主張する被侵害利益が、Yの有する信教の自由や信仰に基づき医療に対してする真摯な要求を凌駕する程の権利ないしは利益であるとは考え難いとしている。[11]

 

(2)   輸血拒否患者への無断輸血が問題とされた東大医科研付属病院の判例

 地裁判決

 「Xは、国Yとの間で、手術中にいかなる事態になってもXに輸血しないとの特約を合意したと主張しているが、医師が患者との間で、輸血以外に救命方法がない事態が生じる可能性のある手術をする場合に、いかなる事態になっても輸血をしないとの特約を合意することは、医療が患者の治療を目的とし救命することを第一の目標とすること、人の生命は崇高な価値のあること、医師は患者に対し可能な限りの救命措置をとる義務があることのいずれにも反するのであり、それが宗教的信条に基づくものであったとしても、公序良俗に反して無効であると解される。」と判示し、輸血拒否者への輸血には違法性はないとして、輸血をした医師、病院の責任を認めなかった。[12]

 

 高裁判決

 「自己決定に必要な説明を十分せず輸血する場合、輸血が救命に必要だったとしても説明義務を怠った違法性は免れない」と判断した。女性の絶対に輸血しないという要望を病院側は明確に承認しておらず、輸血について合意は成立していないと認定し、医師には患者が判断して同意するために必要な説明をする義務があると指摘した。医師側は「輸血の可能性がある」という説明を怠り、手術を受けるかどうかを選ぶ機会を与えず違法であるとして、東大医科研究所付属病院の担当医3人と国に55万円の損害賠償の支払いが命じられた。輸血しないという特約については、「人が信念に基づき生命をかけても守るべき価値に従い行動することは、公共の福祉などに反しない限り違法ではない」として、絶対輸血しないという特約があっても公序良俗に反しないと判断した。また自己決定権について「交通事故による救急治療など特別な事情がある場合を除けば人生の在り方や、死に至るまでの生き様を自ら決定でき、尊厳死を選択する自由も認められるべきだ」とした。[13]

 ただし、救命のための本件輸血の必要性は肯定されて不法行為責任は否定され、説明義務違反に対して50万円の損害賠償支払いが命じられた。

 この判決を朝日新聞は「医療現場では、どんな場合でも輸血を受けないというエホバの証人の信者への対応が、患者側に立って進められてきた経緯がある。日本医師会の生命倫理懇談会は1990年、輸血をしないことを条件にした手術を行うこともやむを得ないとする見解を示した。患者の意思を尊重して緊急時でも輸血をしないとの見解を発表した医療機関も、少なからずあった。今回の高裁判決は、こうした医療現場の動きに沿うものと言える。」と報じている。[14]

 

 最高裁判決

 原判決を維持し、患者の人格権侵害による不法行為責任を認めた。[15]

 判例タイムズの解説には「本判決は、本件の事実関係の下においては、医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生じる可能性を否定し難いと判断した場合には、そのような事態に至ったときは輸血するとの方針を採っていることを説明すべきであったとし、これを怠って本件手術を施行したことをもって違法としたものである。医師らが輸血の可能性が全くないと判断して手術を開始したが、予想外の緊急事態が発生したために輸血をしたという場合については本件の判断が及ぶものではない。」とあり、また「本判決は、輸血を伴う医療行為を拒否するとの意思決定をする権利は尊重されなければならない旨を判示しているが、右判示は、患者側の右権利が医師の有する救命義務、裁量権に常に優先すべきことを述べるものではなく、具体的な状況下において医師の裁量権等との間で調和を図る必要性があることを前提にしていると解すべきものであろう。」としている。

 しかしながら、弁護士の野口勇氏は[16]「患者が医師のところに運び込まれたときにすでに救命救急状況にあるという場合であっても、患者本人の意思が明確である以上は、その意思に反して輸血を行うことはできないとするのが本件判決の趣旨であると解される」とし、その根拠として、「判決は、仮に生命の管理ができなくなると考えられる状況であっても、医師の裁量よりも患者の決定権の価値を優先させたのであり、その原則は救命救急状況の場合に適用されないと考える道理はない。待機手術の場合であろうとなかろうと、生命が危険になる場合はいつでもその時点では「救命救急状況」なのであり、緊急状況の場合には患者の人格権が無視されてもよいということになるのであれば、本判決の示した原則はおよそ無意味になってしまう。また、判決文の中には、患者の意思決定をする権利は人格権の一内容として尊重されなければならないというくだりにおいて、「緊急状況においてはともかく」というような適用除外文言がない。」と記している。さらに氏は、「学説の状況をみると、輸血を拒否するエホバの証人に輸血することは緊急状況の場合を含めて違法と解するのが多数である」とまで述べている。氏の見解によれば、先の判例タイムズの解説は少数説であるらしい。

確かに、最高裁判決を忠実に解釈すれば野口氏の見解のほうが妥当であるように思われる。ただしその場合には、本件においては高裁段階で説明義務違反のみならず、違法輸血という不法行為があったと認定されるべきであったということになる。

一方、樋口範雄氏は「この判決では、患者の意思決定を尊重して輸血せずに死亡した場合に、医師に法的責任がないとは明示しておらず、今後の医師の対応の在り方につきあいまいな点を残す結果となった。」と述べている。[17] 交通事故などで、意識がない状態で手術が必要になる場合のために、「エホバの証人」は「輸血をしないことで発生する不利益に対する民事責任を追及しない」という免責書を携帯している。しかし、刑事責任は問われる可能性がある。すなわち、輸血を行わなかったために患者が死亡した場合には業務上過失致死(刑法211条)もしくは保護責任者遺棄致死罪(刑法219条)、同意なしに輸血を強行した場合には傷害罪(刑法204条)に問われる可能性がある。患者が助かれば民事訴訟および傷害罪、患者が死んだら刑事訴訟では医者は立つ瀬がない。この判決が出た以上、刑事訴追はないものと考えるが、どこからも公式な確約がないという現状は医者にとってあまりに酷ではなかろうか。

さらに、民事についても問題がないわけではない。輸血しないで死亡した場合に、遺族にも不法行為責任にもとづく慰謝料請求権は認められている(民法711条)ので、エホバの信者ではない遺族からの訴訟がおこる可能性は残るであろう。特に、手術に若干のトラブルがあって通常よりも出血が多くなってしまった場合に問題となろう。この判決が出るまでは、実務弁護士の中には「裁判になったとして、賠償金の大きさを比較すると、死亡した場合はホフマン計算(逸失利益の計算)だから、1億円のオーダーとなり、輸血して助かった場合の慰謝料よりもはるかに高いので、輸血した方が損失は少なくてすむ」と説く者もいた。[18] しかしながら、野口氏は「すでにインフォームド・コンセントの重要性が社会的に認められるようになり、エホバの証人の輸血拒否が人格権として尊重されるべきとした最高裁判決が出た以上、今後本件と同様の事例が起きたなら、より高額の賠償額が認定されることは必至であろう」と述べている。[19]

 

5 最高裁判決をうけた上で残る問題

 

(1)未成年者、意識不明者の問題

 厚生省は1997年4月、輸血には患者本人の同意を得ることを義務化しているが、交通事故などの救急医療や手術中の予期せぬ大量出血、それに子供の患者の場合への対応が課題として残される。

 未成年者は、法定代理人(親権者または後見人)の同意がないと、有効な契約を結ぶことができない(民法4条)。したがって、患者が未成年の場合には、病院としては、直接、法定代理人と契約する方がよいが、そうでない場合には法定代理人の同意を得る必要がある。同様に、大人であっても意識不明者であれば、自分で契約はできない。この場合も、配偶者や父母や子といった患者の家族が契約を締結することになる。この場合の医療契約は次の3つの説に分かれる。(1)代理説(2)第三者のためにする契約説(3)事務管理説 である。

未成年者の場合は代理説でよいが、久々湊晴夫氏も指摘されているように[20]、単純な財産行為とは異なり、本人の意思を最大限に重視する必要があると考えられる。立山龍彦氏は、遺言能力が15歳から認められており(民法961条)、臓器提供の意思表示ができる年齢も15歳以上となっていることから、15歳から自己決定権に基づき輸血の拒否は可能であろうとしている。また、親が子の輸血を拒否して死をもたらす行為は、子に対する保護義務違反と考えられ、親権の濫用(民法834条)であるとし、医師が輸血をしても、緊急避難行為として違法性が阻却されるとしている。[21]後半部分は私もこの立場に立ちたいし、通説となることを信じたいが、前半部の15歳から輸血拒否可能というのには反対である。大人でさえマインド・コントロールされている懸念があるのであるから、未成年者の判断が自由意志による確固たる判断であるとはとうてい思えないからである。アメリカ・マサチューセッツ州では未成年者の場合には次の5つの点を考慮して裁判所が決定することになっている。[22](1)本人の希望(2)本人の宗教的信念(3)治療による副作用(4)治療による予後(5)本人の判断能力 わが国には現在そのような制度はないが、医療現場に判断を委ねるよりは司法の判断を仰ぐほうがよりふさわしいと考える。

 

(2)手術で問題となるケース

 前掲の朝日新聞[23]で「患者の意思を尊重して緊急時でも輸血をしないとの見解を発表した医療機関も、少なからずあった」と記されているが、病院の方針としてエホバの証人の手術を積極的に受け入れると決めた場合には、患者が要求する免責書への同意署名・捺印を業務命令として強制できるのかという問題がある。手術は典型的なチーム医療であり、複数の医者や看護婦が携わることになるが、全ての意見が一致するという方がむしろ稀なのではなかろうか。通常、外科医が署名するのはその手術において予想される出血が少量である場合であり、はじめから大量出血が予想される手術で進んで同意署名する医者は極めて稀であろう。しかしながら、人間のやることに絶対などということはあり得ないのであり、医療、特に手術においては予想外のことがおこる可能性は少なからずある。以下、想定されるケースにつき検討する。

(ア)   不可抗力による大量出血

 多くの施設で、この場合は、免責書に同意署名・捺印した以上やむを得ないとして、輸血はしないという結論になるかもしれない。

(イ)外科医のミスによる大量出血

(@)外科医が輸血を依頼する場合

 ミスをした外科医が過失を追及されることを恐れて、輸血を麻酔科医に懇願する可能性がある。エホバの証人でなければ、輸血により事なきを得て通常は問題とならないケースであるのに理不尽ではないかという思いがある。懇願されてそれを拒否する麻酔科医はまずいないであろう。

(A)外科医が輸血を拒否する場合

 超大量の輸血が必要となるような状況になってしまい、急場はしのげても後で肝不全等の合併症で死亡する可能性が高いような場合には、輸血ができないので亡くなりましたということにして免責される方が得策であると考えて、あえて輸血をさせないという選択があるかもしれない。

 

6 おわりに

 

 東大医科研病院での無断輸血に対する最高裁判決が出る以前には、免責書への同意署名・捺印をしなくても手術を受けるエホバの証人が存在したが、最近はほぼ全てのケースで同意署名・捺印しなければ手術自体を拒否するように徹底されているようである。伝道師である患者に麻酔をしたことがあるが、彼は判例や解説のコピーを持参して私に同意署名・捺印を依頼した。他の患者の時に感じたマインド・コントロールされているのではないかという疑いを、彼に限っては持たなかったので「万が一、輸血をしなければ助からないという状況が起こったときには、エホバの証人である奥さんに最終的な同意を求める」ことを条件に同意署名・捺印をした。しかしながらその後、このように支援してくれる医者がいるとして、これらの同意書を布教活動に使っているという情報提供がなされたので、現在はいっさい署名しないことにしている。外科医は私の方針を知っているので、エホバの証人の手術をしたいときには、署名してくれる他の麻酔科医に依頼している。しかし時間的余裕のない緊急時にはそうもいっていられないであろう。その場合にはどうしても希望されるなら、心ならずも署名するかもしれない。ただし、やむを得ない場合にはたとえ署名していても、私は輸血して救命する方を選択する。

 「エホバの証人」が輸血を拒否している場合、本当に死んでもかまわないと考えているのか、それとも周囲の圧力に負けてやむをえずそう主張しているのかは、実際にはわからない。ものみの塔協会は過去においてその機関雑誌の中で、医療機関に従事する「エホバの証人」たちに、仲間の「エホバの証人」の患者がものみの塔協会の方針に反する医療行為を秘密で受けたことを職務上知った場合には、医療の秘密とプライバシーの保護よりも会衆の指導者にそのことを知らせることを優先すべきであるという通達を出していたことからもわかるように、たとえ自分では輸血を望んでいてもあとでばれることを恐れて、免責書にサインしてしまうのではないかという危惧がある。

 前掲のRecent developments in medical care of Jehovah’s Witnessesは、輸血拒否の方針はものみの塔協会自身により変更される可能性が残されており、そのような不安定な状態である現時点では、不可逆的な患者の死という事態は避けるべきであろうと結論づけている。少なくとも未成年の子供の場合にはたとえ親であっても輸血を拒否する権利はないものと考える。

 


参考文献

 

秋田成就 編著 「医事業務事情別冊 医事判例・労働判例 実務解説」産労総合研究所 1999年12月3日

新美育文 「「エホバの証人」輸血拒否事件 生命か信仰か――患者の自己決定権の意義とその限界」法学教室 2001年No.248 p11-15

前田和彦「医事法講義」信山社 全訂第3版 1996年

野田寛「現代法律学全集58医事法中巻」青林書院 1987年

平沼高明「医事紛争入門」労働基準調査会 平成9年

「エホバの証人輸血拒否控訴審判決」判タ 1998年 No.965 p83-91

丸山英二「宗教上の理由による輸血拒否とアメリカ法」法学セミナー 1992年No.446 p10-11

Ronald D. Miller ed. “Anesthesia” 5th edition Churchill Livingstone 2000

広中俊雄 五十嵐清 編著 「法律論文の考え方・書き方」有斐閣選書 1983年

高田利広 小海正勝 「病院・医院の法律相談 上・下巻」新版 株式会社ぎょうせい 平成4年

 

 

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[1] http://www.ceres.dti.ne.jp/`gengen/ehoba に存在していたが、現在は存在しない。

[2] 山田卓生「信仰上の輸血拒否と医療」ジュリスト1985.9.1 No843 p86-92

[3] Recent developments in medical care of Jehovah’s Witnesses Western journal of medicine 1999 May p2297-2301

[4] 千代崎秀雄「「エホバの証人」はキリスト教か」 いのちのことば社 1986 p61

[5] 「時の判例(民法)」法学教室 1997年7月202号p122-3

[6] Anna L Harris, Thomas F Engel. “Anesthetic challenges and considerations presented by the Jehovah’s witness patient” http://www.caic.org.au/jws/medical/anesth.htm(2003年10月1日に確認)

[7] 米田泰邦「医事紛争と医療裁判」第二版 成文堂 1993年 p213

[8] 石原明「エホバの証人の輸血拒否・被収容者のハンスト−その法律問題の検討―」立命館法学 1993.Vol231,232 p1067-1090 

[9] 判例時報718号98頁

[10] 大谷實「医療行為と法」 弘文堂法学選書11 p98-99 平成9年

[11] 大分地裁昭和60年12月2日決定 判時1180号113頁

[12] 東京地裁判決 平成9年3月12日 判タ964号82頁

[13] 東京高裁判決 平成10年2月9日 判時1629号4頁

[14] 1998年2月10日

[15] 第三小法廷判決 平成12年2月29日 判タ1031号158161

[16] 法学セミナー 2000年9月 No.549 p65-68

[17] 法学教室 2000年8月 No.239 p41-44

[18] 諏訪邦夫 編著 「麻酔を引き受ける前に――第3回日本臨床麻酔学会シンポジアム記録」克誠堂 1984年

[19] 注12 p66

[20] 久々湊晴夫「医事法学・医事法制」成文堂1998年

[21] 立山龍彦「自己決定権と死ぬ権利」東海大学出版会1998年54頁

[22] http://www.caic.org.au/jws/medical/teenblood.htm (2003年10月1日に確認)

[23] 注14参照