部誌

 管理人注:)五連覇を記念して当時の主務であった黒田義則先生が編集された非常に初期の貴重な部誌を、管理人が編集しなおしたものです。縦書きの冊子をHTMLに編集しており、古い文体の部分もあり可及的に少なく改変している部分もあります。従いまして、ページ数の表記がありますがあてになりません。編集者には許可をいただいていています。ご容赦ください。

目次

広大医学部サッカー部部誌
第1回  全国日本医体 第19回 西日本医体 優勝記念特集号

我が蹴球部に永久保存される優勝杯・・・上村教授・・1
私のサッカー歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土方頼己・・2
サッカー思い出すまゝに・・・・・・・・・・・・・岩森 茂・・・3
サッカーに関する想い出・・・・・・・・・・・・・服部 進・・・5
サッカー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・梶川和敏・・・6
キーパー我流・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・徳岡昭治・・・7
雑感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横路謙次郎・・9
忘れられない二点・・・・・・・・・・・・・・・・倉田昭典・・・・10
サッカーと共に思い出す友・・・・・・・・・・十時一雄・・・・11
西医体初参加の思い出・・・・・・・・・・・・難波資亨・・・・12
あの頃の事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大野文夫・・・・13
栄光への道程(一時期の回顧)・・・・・・・児玉 求・・・・・14
サッカー部の思い出・・・・・・・・・・・・・・・斎藤泰造・・・・17
初優勝の経験から・・・・・・・・・・・・・・・・中前恒則・・・・19
霞町に移転のころ・・・・・・・・・・・・・・・・・茶幡隆之・・・・20
サッカー、この楽しいもの・・・・・・・・・・・・伊藤隆明・・・・21
サッカーの香り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岸 明宏・・・・・21
小  感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・関口善孝・・・・・22
褪せる事なき記憶をあらたに ---初優勝の思い出・・・・岡田 宏・・・・・・23
雑  感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清水裕弘・・・・・24
西医体の思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・益田 厚・・・・・25
坊主になった話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水戸正典・・・・26
サッカーと私・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新田康郎・・・・27
無我夢中の初優勝・・・・・・・・・・・・・・・・・西亀正之・・・・27
後援会の事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮崎正毅・・・・28
主 将 雑 感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・林 道義・・・・・30
現役選手の横顔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
四十二年度及び過去五ヵ年の成績・・・・・・・・・・・・・・・・34
後援会々則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
後援会及び蹴球部名簿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
歴代主将及び主務名簿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42

我が蹴球部に永久保存される優勝杯          上 村 教 授

 我が蹴球部は西医体に於いて、今年も優勝し、五年連続優勝と云う記録をつくり、遂にその優勝杯は永久に我々の所に留まることになった。しかも、その余勢をかつて、東医体の第一位、第二位校を破り、全国の覇者になったのである。
 口で五年優勝と云うのは非常に容易であるが、我が医学部の如く学生の少ない所では、その中から部員を集めて、チームを作り、漸くチームワークができるようになると、何人かが卒業し、それをまた新人で補いながら、少ない人数で、この偉業をなしとげたのであって、その努力や苦労は並大抵なことではなかったのである。
 歴代の部員の団結と猛訓練の賜物であり、その間に培われた伝統によると云っても過言ではあるまい。昨年迄持ち廻りであった、あの銀カップは遂に我々の所で永遠に落着くことになった。
 古色蒼然たるあの銀杯を眺めていると、走馬灯の如く、これを手にして優勝の喜びにひたつた各校の選手達の姿が浮かびあがってくるように思われ、また、それについている黒づんだもの、真白いものなど何本かのリボンに誌された優勝校の名前をみると、「夏草や兵者どもの夢の跡」と云う句のような感激がよみがえってくる。
 今年迄幾星霜、一つの球を追って肉弾相うつ若者達の競技を毎年ぢーと見守ってきた、この銀杯の優勝カップも、今は我が医学部長室の棚の上に飾られていて、今後グランドに姿をみせることはないであろう。 静かに、この部屋を訪れる人達に、自分の永住の所として、ここを与えてくれた我が蹴球部の現役、先輩等の功績を称え、彼等の有していた素晴らしい闘志について物語ることと思う。それについても思い出すのは今夏の合宿練習の様子である。
 炎熱のグランドに、半裸で、滝の様に汗を流しつゝ訓練していたあの姿である。
 蹴っても、叩いても、次から次に飛んでくる球を一人づつ左右にさばいているあの若人たちには本当に熱と力があった。全く闘志の塊のような感すらあった。遠くからみて、本学部の学生かしらと小首を傾ける位であった。
 しかし、それがまぎれもなく、我が部員の練習と判った時には、実に嬉しかった。膝さえ自由に動けば、ゴールの後で、それた球を拾い或いは蹴って、苦労を共にしたいと思った程である。また、こんな若者が我が医学部の学生にいるかと思うと、今は兎も角、将来に期待がもてると感じた。
 あの闘志、この体力、そうして根性により、必ず何かやることだろう。
 今や医学界でもチームワークを必要とする研究が多くなっている。恐らく、我が蹴球部のあの訓練で鍛えられた部員の中から、リーダーとして「我につゞけ」と引っ張っていける男も出るであろうし、それに呼応して、あの闘志、体力、根性をもって、一緒にそれを処理する者も次々に現れることであろう。
 実に頼もしいかぎりで、私はそれを空想とは思っていない。
 このように輝かしい歴史と伝統を引き継がねばならぬ部員の負担は重く、他から追われる境遇が如何につらいものかを、しみじみ味わうことになると思うが、この試練は将来大いに役立つことがあり、又その苦しみはいつの日か楽しい思い出になることであろう。
 ともあれ我が蹴球部に籍のある者、或いは今後おく者にとっては、あの銀カップは無言のアドバイザーであり、またなることと思う。
 私は今後歓送迎会の時、正面に飾り、我が部の所謂守護神のように取り扱ったらどうであろうかとも考えている。

追記
 五年連続優勝の意義について書けとの要請であったが、私にはむつかしいテーマなので、それに関連性のある優勝カップついて書いた。拙文の点は御寛容を乞う。

私のサッカー歴  土方頼己

 私が初めて「ボール」を蹴ったのは附中に入学した時で、当時附中では対外試合を許可されていたのは「サッカー」部だけでしたので、従って全生徒が朝礼前、昼休みには「アカシヤ」並木に囲まれた狭い校庭で直径10糎(センチメートル)大の「ゴム球」蹴って、運動しておりました。そのため誰れでも一応の基本「プレー」が出来るようになっておりましたが、部員になるには学校の成績が悪いものは駄目という内規があり、私は止むを得ず五年生の時は応援団長をやっておりました。当時の「チーム」力は夏の全国大会に優勝した広島一中と対戦して勝った程の実力のある「チーム」でしたので冬に行われる全国中学校大会をめざして頑張っていましたのですが、何分にも血気さかんな連中ばかりでしたので、映画に行ったり酒をのんだり、して気勢を昂げる事もあり、学校の風紀を乱したとの理由で九月下旬応援団長以下十数名が停学処分を受け、主将と団長の私が首謀者とみなされ約三か月間登校を禁止されました。それから数年附中のサツカアー部は対外試合が禁止されましたことは古い蹴球ファンの方はよく御存知の事と思います。附中を四十人中の四十番で卒業させてもらった私は一年の浪人生活を経て当時「インタアハイー」にて六高(岡山)とともに最も歴史ある松山高校に入学しました。高校三ヶ年の蹴球生活は私の生涯のうちで最も印象的なもので、当時の物凄い練習方法は今迄も鮮明に私の脳裏にこびりついております。学校がおわると一〇分間で「ユニフォーム」にきかえ日がくれて「ボール」が見えなくなる迄練習し月夜の日hあ夕食後又練習をくりかえし、八月から十二月迄は全員運動場の近所に合宿し、門限は九時で禁酒、禁煙を守り、間違って勉強しておるとおこられ、英国の「サツカー」の本を読まされ、碁石を並べて「フォーメイション」の練習を、やらされました。従って体力のないものは結核でたほれ、又頭の廻りのわるいものは二年つづけて落第して停学になり戦列を離れて行きました。高校三年時代は主将となりましたが、私の在高時代は残念ながら優勝する事が出来ませんでした。その後岡山医大に入学しましたが四年間は勿論「サツカアー」をやりましたが、松高時代と比べるとのんびりしたものでした。しかしどこの医学部と試合しても一度も敗けた事はなく大抵の得点は私があげており名古屋帝大の医学部で一人で八点入れたのが最高でした。
 したがって何か蹴球部だけでは物足りず、野球、水泳、バスケット、ラグビー等卓球を除く殆どの「スポーツ」の選手生活をおくりました。大学四年生の時に大東亜戦争が始まり、十二月二十八日で最初の繰り上げ卒業となり翌年の昭和十七年一月二十三日軍隊に入隊して約三か月の兵営生活後陸軍々医中尉となり東京郊外の陸軍燃料廠附設となりました。在京時代は「桜生チーム」といって陸軍の「チーム」を作っておりました。このチームの半数は「ベルリン」のオリンピックの選手でしたが私はその「チーム」のウイングをやっておりました。昭和十八年囲碁は「サツカアー」は敵国スポーツと見做されて禁止されました。終戦後は二十一年岡山医大にかえり、再びオール岡山を結成してそのかんとく兼選手となり国体予選に出場しましたがどうしても広島チームに勝てず、一度も国体に出場出来ませんでした。昭和二十四年に広大にかえり安浦で広島医専のチームを「コーチ」した記おくがあります。二十五年から中国蹴球協会の理事となり広島国体開催で苦労しましたが二十九年に理事を止め長い蹴球生活とも別れを告げました。約二〇年の長い蹴球生活で私の半生は殆ど球にあけくれる人生でしたが、今でも私は心から蹴球を愛し、蹴球によって得た様々の経験が私の今日をきづいてくれたのだと確信しております。

サッカー 思い出すまゝに   岩森 茂(二十五年卒)

 私のサッカー歴は古い。歴といってもサッカー部に入っての選手生活を意味するものではない。蹴球と云うものはゴールキーパーがおり、攻めるものと守るものとが居て、お互いに相手のゴールをけりこめば点がとれると云う事を知って校庭や、広場で小さなボールを蹴り合った時代よりこの方を歴と云ったまでである。私自身不思議にボールを扱うスポーツが好きでサッカー、ホッケー、小さなボールではピンポン、「マブロ」(これはラムネ玉を使って遊ぶもの)等、殆どの球技は一通り、こなして来ておる。特にサッカーは私の小学校が袋町であり、当時千田町から袋町に通っていた関係で、何時も学校の帰りには旧制広島一中グランド(国泰寺グランドを当時呼んでいた)の横を通る事となり、中学生がサッカーを練習しているのを、縷々見る機会に恵まれていたし、又自宅近くが文理大グランド(現在の千田小学校東、道路になっている)があり、土曜、日曜になると出かけて行って高校生や大学生の練習ぶりを見たり、球拾いに使われていた関係で自然にサッカーホールに親しむようになった。小学校時代にはゴールキーパーが最も巧い人のように様に見えたし、あの横っ飛びで球に飛びつく姿がとてもスマートに見えてサッカーの中でも、とりわけゴールキーパーが好きだった。そして容易に取れる球でも横転してとっては自ら興奮していたものだ。こんな関係か、草試合にはゴールキーパーをすることが多かった様に記憶する。又私は生来、短距離の方はあまり速くないので、折角サウスポーでキック力はあっても攻撃型には向かない気がするのであるが、中学校に入っても級対抗の時は何時もレフトウイングで通し、医専に入っても同様のポジションに終始した。
 私の修道中学時代、私の家の近くにサッカー部先輩が下宿しており、又部員連中の溜り場があったので、よく出入りし可愛がってもらった関係か、特にサッカー試合の応援には力を入れたものである。その影響からか、未だにサッカーをする方も好きだが応援に駆け付ける事も嫌いではない。
 医専時代のサッカーについての思い出は誰かが投稿してくれるだろうから、私は何も云わないが、靴の思い出だけは忘れようにも忘れられない思い出である。私は元来、貧乏育ちだからか「がき」で育ったからか、裸足でボールをよく蹴っていた。そのくせが取れないで学生時代もよく裸足で練習試合に望んだものだ。それが医専に入り初めて西宮の方へ試合に行くことが決まった時、当時の事とてサッカー靴はないし、地下足袋で行くのは一寸体裁が悪いし、街に出かけて行って求めた靴が、何とかっこうの良い進駐軍のお古、アメリカンフットボール用の靴だった。闇市で一金五百八十円(当時はこれだけの金があれば映画十回は見ることができた。)也を支払いぴかぴかに磨かれた、裏皮を新しく張り替えた靴を小躍りしてもって帰ったのであるが、そこにはやはり闇市用に雑に修理されたものと見え、大事な試合半ばにしてぽっかりと底がはずれて使用不能、この時のみじめな気持ちは未だに淋しく脳裏によみがえってくる。
 医専卒業後は、後輩のサッカー部は暫くサイレントな時が続いた様で、私の記憶では児玉格氏がその後のサッカー部をまともに育てた様に思う。以後、中前君、岸君、岡田君と、ことサッカーに関しては飯より好きな連中が相次いでサッカー部を育て、現在の強力な部に成長してきた。特に広島に医学部が移ってからは、私はサッカー部の面倒はよくみて来ているので、その部活動についての記憶は生生しい。これら一連の記録は又、誰かによって詳述されようから、私は略す。
 最後に、私の何時も優勝祝賀会に臨んで口にする言葉、スポーツは人を作る。医者の世界に入ってサッカーをしていてよかったなと感ずる事は度々ある。そこには学問によって得られない正義感、人の和、謙虚、忍耐と数え切れない教訓を学び取ることが出来る……等々、サッカーを通じて自づと身に付く教訓は多い。学生諸君、何時までも、この意味で後輩を導き、鍛錬して行ってもらいたいものである。そして又、もう一つの言葉、勝利の美酒に酔おう……何とも楽しいたくましい感激であろう。この瞬間を求めて諸君、学問と共にサッカーにも精進して貰いたいものだ。

サッカーに関する思い出   服部 進(二十五年卒)

 現在、私のアルバムにある一枚の写真が、昔のサッカーの記憶でもあり、苦しみや楽しみを思い出さてくれる。写真は、ゴールをバックにして、左より岡野、小生、山本、失礼ながら一人名前失念の好男子、四人とも裸足でたち、その下にボールをはさんで、徳岡、星島の両兄が、裸足ですわっている。勿論、服装は、みんなそれぞれまちまちで、白い帽子の山本君、ハチマキ姿の徳岡君、星島君、今から、昔を偲ぶことは無理と云うものだろう。ゴールさえ、四角材の棒でくみ、縄でくくりつけ、ネットは勿論、全くなかった頃だから。
 この写真は、十年一昔tp云うならば、二昔前も昭和二十一年六月のある日の姿だから、思い出ついでに、当時の試合の様子を書いてみると、広島工専、岡山医大、西宮でのインターカレッジでも負け、一点を取るのが大変だった。体重も皆な軽量で、やむなくサッカーシューズを買った記憶がある。今から昔を偲ぶと、本当に一期生と云う気持ちがする。この文章を書くのに参考としたアルバムは、税込み四円三十七銭のしろもので、ついでながらアルバムの最初の文章は、次のように書いてある。昭和二十年四月二十五日、広島医専一期生として入学す。八月六日の原子爆弾を避くること十時間、高田郡小田村、甲林坊を疎開学舎として、九月十五日まで使用す。本校、皆実町に有りたるも、原爆により倒れ、終戦後、元安浦海兵団を使用す。同じく広島女高師、山中高女も使用し、男女同一の学園となる。これより再出発す。昭和二十一年二月。
以上

サッカー   梶川 和敏(二十六年卒)

 この度サッカー部が優勝したと云う事を聞き心からおめでとうと云いたい。そして又昔からの事がいろいろと思い出されてならない。
 私が田舎の主張先から広島に帰ったのが昭和三十四年の九月ころで、以来、中学校、高校の大会、関西蹴球祭、大阪との定期戦等一度も欠かさない様に見に来ていた。宮本が卒業した頃、小城が高校二年の頃かと思うが以後、宇野、吉田、国枝、森、若山等、特に森、若山君は一年生の頃からプレーを目の前に見てきている。その都度に感じることはサッカーがずいぶんと変わって来たと云う事である。私達の頃は三バックの流行しだした頃でW型とかM型と云うのが話題になっていた頃である。昭和二十二年か二十三年頃と思うが専門部から二千円、予科と医科大学から二千円づつ、六千円の予算で関西インターカレッジに遠征したのが始まりであろう。当時はハーフサイドが最も弱かったが最近はハーフサイドの花形時代と云えよう。当時のメンバーを書いてみると別項の様に思うが間違った所があったらお許し願いたい。
 私はRWかRIをしていたがRWの方が多かった様に思う。RWでもグランド中を駆け回り現代流の全員攻撃、全員防御を私一人でやっていた様に思う。サッカーは一人上手な人がいてもチームプレーに徹しなければ勝てないものである。ウイングを得意とする人はえてして個人技にはしり易い傾向にあり現代人の渡辺、杉山、松本にも時々そういうふしが試合に現れる事がある。現在のサッカー部には若山君と云う立派なサッカーマンがいるが彼の独り舞台になったのでは勝てないと思う。彼が小城や八重樫の様な役に回った時初めて自他ともに十分の力が出し切れるように思う。この度もそうしたチームワークのたまものが優勝につながったものと思う。別項メンバーで大阪に遠征した時も大阪薬専に準準決勝で負けたけど当時はズックか地下足袋であり都会のチームでも靴を持っているのはチームに二〜三人と云う状態であった。この時は延長でバックの細馬氏がペナルティエリア内で判然とした故意のハンドを審判が見逃して結局引き分け抽選負けであったが、この試合に勝っていたら旅費がなくなり困る所であった。こうした思い出は大抵の者が持ち合わせているものと思うが、こうした機会に懐かしく思い出されてならない。私も子供が三人いて末っ子のヤンチャな奴にサッカーをやらせてみたいと思っているが、学問とスポーツが両立するであろうかと憂慮している。しかし団体生活スポーツの中にある団結力、協力性、社交性、ガンバリズム等々、学問以上に大切なものが沢山ある様に思ってならない。諸君も今後とも益々ご健闘の程を願ってお祝いの原稿としたい。

GK   徳岡 昭治 (病理、助教授、主将)
 補   星島 二郎 (岡山市、死亡)
RB   細馬 静昭 (県立広島病院外科部長)
LB   徳井 達司  (慶大神経科)
 補   服部 進   (開業、内科、香川県)
RH   岸槌 昭夫  (開業、内科、呉市)
 補   串田 秀夫  (開業、耳鼻科、広島市)
CH   真神 康次郎 (開業、耳鼻科、倉敷市)
LH   山本 武夫   (三次中央病院外科部長)
 補   飯倉       (不明)
 補   岡野 熙    (岡大、津田外科)
OR   加藤 寛治   (外科、市民病院、外遊中)
IR   梶川 和敏   (開業、外科、広島市
) CF   倉田 昭興  (東洋工業産婦人科)
IL   横路 謙二郎 (原医研、病理、教授
) OL   岩森 茂    (原医研、外科、助教授)

キーパー我流  徳岡 昭治(二十七年卒)

 確か私が中学二年か三年生の頃だったと思う。母校の蹴球部は宿望の全国制覇を成し遂げてその意気たるや全く当るべからざるものがあった。他校との試合が行はれるたびに我々下級生は好むと好まざるとに不拘応援団要員として半強制的に駆り出され観戦を強いられ応援歌をうたはされたものである。おかげでサッカーのサの字も知らなかった私も度重なる観戦のうち何となくルールを覚え試合の運び方が少しづつ判って来る様になったのであったが、当時の此の蹴球部の試合振りはまことに文字通り見事なものであって、ゴールキーパーはいつもハーフーライン当り迄出て来ていて試合は専ら相手軍の陣地内で行はれると云う一方的なゲームであった。サッカー熱の旺んな中学であったから見よう見まねで私もいつの間にか寄宿舎での明け暮れにポールを蹴る事を覚え時にはゴール前に突っ立ってキーパーの真似事をやって見たりする様になったのであったが、これが為に後年自分が蹴球部の一員となり試合に臨んで自らゴールを守る事になろうとは当時夢想だにしなかったし、またそうなったのはほんの一寸した変なきっかけからであった。
 戦後の物のない時代に若いエネルギーと時間をもて余した挙句、″同志よ集れ″と云う訳で何となく好き者が集り、そしてそれを蹴球部と自称し始めたのであるから肝腎のボールだって継ぎはぎだらけのいびつなボールが一個か二個あればよい方だった。蹴る方だって蹴球靴を持っている者等はいなかった。皆地下足袋とか運動靴と云ういでたちであった。私は自分では全くそう云う記憶はないのに、″お前は中学時代いつもキーパーをやっていたではないかい”と云い出す男がいて何となくキーパーを押し付けられて了ったが、キーパーとしての最初の任務は先づ適当な材木を物色して来てゴールをグランドの隅におっ立てる事であった。
 メンバーが揃いポジションが決まったら試合をやろうと云う事になって手頃な試合相手を探しては試合をやったのであつたが、当時の事とて相手チームだとて充分な練習を積んでいる訳ではないので試合に大勝すると云う事もない代りに大敗を喫すると云う事もなかった。そしてどの試合でも結構守るに忙がしく、一度でいいから中学時代のもの母校の孤球部の如くキーパーがのこのことハーフライン辺りを散歩すると云う様な余裕のある試合に臨みたいと云う私の秘かな念願はに叶えさせて貰えないで了った。
 メンバーの皆から無理矢理にキーパーを押しつけられた様なものであったからゴールの守備について私の持っている知識もまことに微々たるものであつた。皆からその時には其其、この時にはには斯々、と教わって、ああそうか、と全くの我流で誤魔化し通した。だから味方の形勢不利と見てとると全員がゴール前まで後退して来て私に加勢して呉れたものであった。心配でとても見て居れないと云う事であったのであろう。
 だから西宮まで出かけた時には私は全くH君に感謝したものであった。その試合は結局は延長戦の末抽選で負けて了ったのだたけれども、フルパックのH君は試合中にキーバーの私の代理迄も務めて共れたのであった。自軍のゴール前での混戦で私が敵方のシュートした球に飛びついてそれを辛くも弾じき返して地上に転がった次の一瞬、H君が私に代って二度目の敵のシュートを手を挙げて弾じき返して呉れたのである。「唯今瞬間的に当方にはキーパーが一人追加されました。」と試合を中断してのこのことその事を申し出る必要もないから押し黙って試合を続け間もなくその危地から脱する事が出来たのであつたが、試合が終った後で立役者のH君の去った言葉がふるっていた。「だってそうしなかったらボールはゴールに入ってしまうじゃあないか。」
 我流が時には敵の意表をついて成功した事もあった。いつも守るに忙がしい試合をするのが常であつたが、一度びゴール前の味方入り乱れての混戦が始まると皆がゴール前に群がるので急に賑やかになって孤独感が薄らぎ、不運にして敵の攻めが功を奏しゴールを割られても意外と気持の負担は軽くてすんだ。それよ寧ろ敵の奇襲を受け、味方の救援が間にに合わないまに攻め手と一対一で向い合う瞬間の方が気分的には余程重苦しく、ゴールを割られると自分にすべての質任がかかった様な味な気分に襲われたものであった。 かねて斯う云う場合にはどうすればよいのだろうか、確為す術もなく相手のシュートを待つしか方法はないのであろうか。とその事を気に病んでいたものであったが、やがて岡山に遠征した時に計らずもこの事態が起り自分なりにそれに解答を出さねばならない事になって了った。独走して来る攻め手があっと云う間に接近して来た時待つているよりはと咄嗟にボールと自分との距離を計ってよしつとばかりボールにタックルした。タックルと云ってもサッカー式の両脚を揃えてボールに突っ込む奴ではなくてラグビー式の頭から飛び込むタックルである。
 かねてそうやったらうまく行くかも知れないと頭の中で考えていたのであつたか、もしそうやってうまくボールを抱え込む事に成功してもボールと走って来る相手との間に自分の体を投げ込むのであるから、その次の瞬間自分の体が相手からどう云う扱いを受ける事になるのかは全然子想がつかない事であつた。そして計らずも今その考えを実際に試めして見る機会が来た訳であった。その結果は全く相手の意表をつくものであつたらしく、私は運よく計算通りにボールを抱え込むには成功して守りを全うするが出来、又攻め手は私の体につまづいて烈しく転倒した。併し私も背中に相当激しい衝撃を受け、暫くは呼吸が出来ない程の激痛を覚えた。が気分は爽快であり心中ひそかに快哉を叫んだであった。
 いつの間にか不惑の年令となり少し坂道を無理して歩くとたちまち膝がガタつき、やがて痛みすら伴う様な不本意な現象が起りつ、ある昨今である。けれども気分だけは未だ未だ若くて、実力日本一の我が医学部サッカー部の諸君と一戦を交え、此の我流の迷キーパー振りを御披露したいと常日頃考えてはいるのだが……。

雑感   横路謙次郎(二十七年卒)

 先日の新紙上に全日本庭球途手権大会の女子シングルスにおける若冠十六才高校二年生の沢松和子選手の優勝が大きく報ぜられた事は多くの人々が記憶されている事と思う。戦後、低迷を続けている日本庭球界にとって女子とは云へ国際的に通用しそうなスケールをもった選手の出現に協会幹部ならずとも色めきたつのは無理からぬ事であろう。元来、テニスは強烈な心身の上にたって多彩なテクニックの要求されるスポーツである。従つて高度の技術習得には長時日を要し、昔からその人の持っている素質の全てを引き出すには十年毎日最低五時間の練習が必要とされている。多少ともテニスに関心を持つ人なら、エマーソン、アンボン、クリシュナン或いは石黒が長年にわたつてデ杯代表として頑張っているのを知っている筈であるが、これも後進がなかなか彼等を追い越し得ない証拠であろう。その意味からも沢松選手は誠に得難い素材であつて、環境にも恵まれており今後の大成がまたれるのである。ただ、テニスではシングルスに比べてダブルスの方が数段難かしいし、また面白いのである。私も学生時代にはパートナーにも恵まれなかったことも手伝って殆どシングルス専門であつたが、最近になってやっとダブルスの味がわかりかけてきて毎日曜日にプレーを楽しんでいる。シングルスは云わば孤独で、自己との戦であつてその点マラソンに似た一面があるが、ダブルスは呼吸のあった二人のコンビネーションプレーが全てであって、前者がゲームをやるのに対して後者はゲームが作られるとも云えるのである。
 サッカーにもテニスにおけるダブルスと同じ事が云えるやうに思われる。プレーする人数こそ違へ、そこには常に激しい動きと共に先を見越した適確な判断が要求される。野球が多彩なスポーツを楽しんでいるヨーロッパで育たず、また本場のアメリカに於てさへフットボールにその人気を奮われつつあるという理由がわかるような気がするのである。
 医学部サッカー部が医学生大会で名実共に王座についた事は大変おめでたい事であるとともに、そこに到達するまでのきびしい練習に耐えたイレブンに更めて敬意を表したい。しかし、勝者は常に全ての相手から格好の目標として狙われていることを忘れることなく尚一層の努力を重ねて記録を末長くのばしてほしいのである。

忘れられない二点  倉田昭典 (三十年卒)

 もう十九年にもなりますか、二昔前の出来事ですが、私の初遠征でもありましたので、気憶の糸を辿りながら記して見ることにします。
 文中で当時のメンバーや、真違っている点もあるかも知れません、当時の資料を持ち合せていませんので、誤りがありましたらお許し下さい。題して「丸坊主にならなかったのまき。」。「こちらは日本食堂列車部で御座居ます。たゞ今より甘い羊かんの販売をさせていたきます」ウエイストレスの声が聞かれた頃で、多分三の宮駅に下車したのだと思います。駅には靴磨少年やお兄さん達の姿が見られて、なんだかぶっそうな気持でした。相手校は? 大阪市立?はっきりしません。味方はGK徳岡、FB 細馬、徳井 HB岸槌、真神、岸、FW岩森、横路、倉田、梶川、加藤の諸先生方だった様に思います。
 広島一中卒というので、当時から運動マンであられた、横路、コ岡両先輩の勧誘をうけたのが病みつきとなり、下手の横好き、球ばかり追っていました、そうでない時はドブロクを飲んだり、飯盒の飯をパクついていた頃で、ルールも殆んど知らないまま試合に出たのです。(見よう見まねです)、今日の様にビデオでもとれる頃だと、さぞかし滑稽なものだったでせう、当時のマネージャー山本先生(1回生)は見ていらしゃったので、そのへんのところは一度聞いて見て下さい。靴はないので、私は地下足袋(布製) をはいて試合にのぞみました。球の行く所、行く所に走り、パスなんて考えもおよびません、球に戯れる猫のようなもの、戦況は二対○で味方の不利でした、味方の陣内で闘っていたのではないでせうか、幾分疲れて、ハーフラインの近くで、戦況如何、眺めていたと思って下さい。私の所に球が転って来ました、無中でした、F Bがタックルに来ました。一直線です、キーパーも突込んできました。そのままゴールです。一点目、二点目は敵ゴール前での混戦、(今で言うなら左右のゆさぶりですか。) この時も我関せずアレヨ、アレヨと眼で追っていましたら、これ又眼の前にコボレ球、無造作に蹴ったらゴールの左隅に気持良く決まり、二対二です、抽選負けでした。抽選に行かれたのは徳岡先生でしたでせうか、チームの皆さんから良くやったとおほめの言葉をいたゞき、帰途「ぜんざい」でしたか、「倉田だけおかわりしてよいと言はれて」少してれました。そうそう試合中面白いことがありました。混戦状態でGKが倒れ、敵さんのシュートをFBの方がGKに早変り、レフリーに気付かれず追加点をはばんだことです。此の人は誰?遠征費用は数少い校友会費から、無理して出費されていたので、此の試合に負けたら、皆んな丸坊主になる事になっていたようで、二対二の抽選負けと言うので、勘弁願うと言うことで帰校しました。二点とも私が決めて皆さんから祝福されたのですから、この二点だけは脳裡に刻みこまれています。

サッカーと共に思い出す友 十時一雄 (三十年卒)

 学校を卒業して十数年になる。時に学生さん達の球を蹴って居るのを見ると私も仲間に入りたくなるが、その中に飛び込んで行くにはもういささか度胸がなく、専ら球が転んで来てそれを蹴り返す好運をいつの間にか願って居る自分を見つける事がある。
 それにしても、下手ではあつても下腹のだぶつかなかった学生の頃がひどくなつかしい。近項ブーム到来とばかりにぎわうサッカー界ではあるが、サッカーと云う語感から先づ私の頭をかすめるのは、ゴールネットに跳返る球ではなく一人の友の姿であり、得点に湧く勧声ではなくその友のしわがれ声である。その友は瀬藤君と云った。瀬藤君は技術上のいわゆるヒーローではなかった。明ぼう皓歯でもなく、ドタドタと走り、球も時々は脚の意に反して飛んだ。それがあざけりでなく明るい笑をさそうそう云う人だった。試合ではいつも私と組んで左フルバックだった彼がリーダーの児玉格君の指示等耳に入らず自陣から敵ゴールまで時間をかけてガムシャラに球を運びシュートした。
 そんな予科練特攻隊生残りのファイトマン瀬藤君が医師国家試験合格通知を眼前にボックリ死んだ。十数年経って彼の死への感傷は去ってしまったが、思い出だけはなまなましく残る。
 彼の名すら恐らく御存知ないだろう後輩の方達に、ヒーローでないサッカー部の瀬藤君を是非御紹介したく、大切な紙面を敢てお借りした。

西医体初参加の思い出 難波 資亨 (三十年卒)

 試合開始五分前、さすがに顔面から血の引く感あり、何しろ諸事苦労を重ねての「西医体」初出場第一戦。相手は大阪医大。初出場のコンプレックスか、無性に相手が強そうに見えた。キックオフ。 今から十五年前(昭和二十七年)の十月。所は明石総合グランド、ラグビー兼用のローンコート。当時の記録その他の資料を失った現在、記憶だけに頼っての走り書き、誤りもあれば嘘もなきにしもあらず、御容赦願いたい。

GK 荒木 (当時三年、翌秋Lungersarkom にて永眠された)
RB 十時 (二年 海田町にて開業)
LB 瀬藤 (二年 昭和三十一年当時はやりのボックリ病にて永眠)
RH 藤谷 (二年 横浜(?)にて耳鼻科開業)
CH 木村 (二年) 福山市松永町にて耳鼻科開業)
LH 絹谷 (二年 広島記念病院勤務)
RW 小生 (一年 尾道総合病院勤務)
RI 熊谷 (二年 豊橋市にて開業)
CF小先 (四年 尾道総合病院勤務)
LI 児玉(格) (二年 広島逓信病院勤務)
LW倉田 (二年 東洋工業付属病院勤務)

 当時のメンバーである。これらの中、中学(旧制) 時代からレギュラーでサッカーをしていたのは小先、児玉の二名のみ。小先氏は附属中学にてCF、児玉氏は修道中卒で当時尚、全広島の中堅FWであった。あとの面々は昭和二十三年広島医大予科に入学?してからボールを蹴ったものばかりで、公式戦出場としては、当-時「広島六高専」で一勝四敗、オール関西蹴球祭で一敗のみで今日の本学サッカー部の輝かしい戦跡とは似ても似つかぬものであった。
 そんな訳で本大会第一戦は不安と期待の交錯の中で始ったのである。
 さてゲームが始って心身がリラックスしてくると、先づ目についたのが相手の当りの強さであった。小細工はこちらが上。敵のLB に戦車の様な巨漢がいたが、これが無類の荒ッポサ、何分頃であったか彼の最初の槍玉に上ったのが小生。ものすごいラフタックルでさしもの小生も吹っ飛ばされて転倒、意識はあるのに体が動かない、同僚に抱へられて場外へ。数分の後戦列に復帰したが、この情況今に小生の脳裏から離れない。この後R I熊谷、RH藤谷、と三人までもこの巨漢のえじきとなったのである。
 さて試合の方は、我々下手くそは「動くパチンコの釘」とでも云はうか、その程度の役目。専ら小先、児玉に球を集め、この二人がゴールを狙う。最初の一点を児玉がゲット、それからは全員見違える様な動きで次々ゴール。計四点を得て無失点の初勝利。優勝でしたかの様な晴がましい気持で宿舎へ帰った。明日のゲームの事など忘れて痛飲したのは云うまでもない。
 因みに、第二試合対京都府立 4―0 の勝、準決勝 対神戸医大O―1の負。
 懐かしさイッパイである。

あの頃の事  大野文夫(三十二年卒)

 学部二年の時「やって呉れるんじゃそうな哺」「あの!」「頼むぜ」児玉格さんの一言でサッカー部に入った。どこのポジションをやっても余り使いものにならなかったが、偶々阿賀高校との練習試合でキーパーをやり凄いライナーのシュートを思わずパンチし、パーに当り危く失点を免れ、皆に賞められた。それ以後キーパーに定着した次第である。その年の西医体は徳島であった一、二回戦、格さんのプレーはずば抜けており本部席の前で相手バックスを迎えくるりくるりとかわす。相手も九州男児、執拗にアタックするが遂に腰がふらついて座り込んでしまった。次いで二人の相手が同時に左右から突進したが、急にスピードを変えてその真中を抜いたので、アタックの対象を失い二人が鉢合せして衝突した、観客はやんやの喝采であった。一方熊谷先輩は無人のゴールに転った球放っておけば得点なったものを、ゴールのボールを両手に持って駄目を押そうとして結局ホジくり出してしまった。試合後「一生懸命芋堀りをやった哺」と皆に肴にされたものである。優勝戦では敗れ遂に岐阜医大の五連覇をなさしめた。結局私の選手生活三年間、三回共決勝戦迄進出しいずれ敗れたのであるが今日の五連覇を遂げ日本一になる等、全盛期を思えば我サッカー部史の一員として非常に嬉しく誇りに思っている。さて私の一番記憶に残る最終学年、先輩も抜け私達が責任をもつての岡山の西医体でのこと、一回戦はシードされ二回戦神戸との対戦で開始五分はやペナルティをとられた。キーパーとしての私はボールの端から端迄歩き如何にしたのか色々考えた。兎に角挙で弾こう、後はキッカーとの気力の闘いだ。睨みつけ跳る時にやっと笑ってやろうと思った。ホイッスルが鳴り相手の目を見た、桂春団次の様ないい男だった。私は挙を固めて前に出た蹴った、球が転った、倒底手が届かない。観声が挙った私は観念した。槙さん、児玉求等走って来て肩をたたいて呉れた。振り返って見た時はるかかなたに球が転っていた。球はそれたのであった。後半やつと一点を入れて勝った。対大阪医大三回戦、試合早々から我ゴール前での混戦であった、之は試合の終る迄続いたのであるが、ゴールキック二十一、コーナーキック:一、フリーキック九であったと記意している。私は選手を叱咤激励すると共にいずれ負けるにせよ一度得点されると相手を調子付け無態な負けになると思い、時間稼ぎに専念した。従って全身至る所蹴られ、つつかれたが我慢した。そのうちゴールをオーバーした球がToiletの液体が流れ出した所にころころ転り球は帯を巻いた様に濡れた。球の交換を要求したが審判は「そのままやれ」と云ったので乾いた所を蹴った相手はそれを見事ヘディングで返して来た。相手は知らなかったのかそれだけ真剣にやっていたのだろう。結局延長に入り私は球場を縦断する時キーパーのジャージを脱ぎかけフォワードと交替しようと思った。そのハッパが効いたのかやっと敵陣に攻め込む事が出来た。それも束の間一気にバックが抜かれ、単身ドリブル一直線にゴールに向って来た。坐して待つより玉砕してやれとダッシュ外枠のラインを越えた、敵は蹴った私も右足を出した。その足先をかすった球は、少し方向を替えて、僅かにボールをはずれた。かくてO-0で終了、抽選、そして勝った。優勝戦は完敗であったが一点の得点で優勝戦迄進出したと云うエピソードである。最後に岐阜の六連覇の記録を破るべく精進あれ!

栄光への道程 (一時期の回顧)  児玉求(三十二年卒)

 暑い夏も盛りを過ぎる頃だった。私は急性肝炎の経過がはかばかしくなく、遷延化を危惧しつつ冷房の効いた病室で絶対安静を命ぜられていた。このとき、私には炎天下の鹿児島で勝利に向って闘い続ける後輩からの日々の送電が唯一の楽しみであった。そして遂に「ユウショウ」の電文を手にした。私はベッドの上で思はずよかった有難うと眩き五年連続優勝とゆう金字塔を樹立した感激に浸った。
 昭和三十年十月、雨上りの芝生の緑が目にしみる西京極球場で、私達は四年連続優勝を遂げている岐阜医大に二年連続曖勝戦で挑戦した。白木主将を中心に、刈谷中学出身者で固めた岐阜の堅城を揺がすことは出来なかった。西日に燦然と輝く優勝盃は白木主将の手で永久に岐阜の地に持ち帰られた。私達は勇者に惜しみない拍子を送った。しかし私達は何時かこの日を迎えよう、その日が来るまで頑張ろう、後輩に夢を託そうと互に誓い合ったことを忘れない。
 それから十二年、サッカー部は逞ましく育っていった。その間に危機がなかったわけでもない。しかし伝統は受け継がれ、一層輝かしいものになっていった。そして去年四年連続優勝、今年五年連続優勝の実力を蓄えた部員は鹿児島に向うとゆう。私は同行したかった。それは私自身十二年前のあの日の惜感と栄光その両極端な感傷を味いたいためであつた。
 九月の或る日、黒田、土橋両君が優勝杯を手にして病室を訪れてくれた。銀色に輝くその盃には、昭和三十四年優勝広島大学、昭和三十五年優勝広島大学とゆう懐しいリボンもついていた。再び他学に渡ることのない優勝杯を手にした若者の顔は栄光に満ちていた。素直に喜びをかくしえない笑顔だった。
 その後開かれた優勝祝賀会には先輩後輩が多数参集され歓びを頒ち合はれたときく。その席にも私は出られなかった。その席上、これを機会に部史を編纂することになったときく。これを機会に、私達の時代を記録しておきたい。
 昭和二十八年、私は医学部に入学した。学部は呉市阿賀町に、病院は広町にあった。運動場ましてサッカーを練習する程のものはなかった。そして西日本医科学生体育大会のあることを知った。横崎(整形外科)、永田(原研外科)、三好(愛媛県開業)、私と四人は入部した。部長は上村教授、主将は荒木さんだった。しかし、私共新入生は荒木主将と一緒になれる機会はなかった。当時主将は胸部の悪性腫瘍のため部長上村教授の御加療を受けておられた。そして夏の日も終る頃、西医体に出発する直前永眼された。呼吸困難の続く中で、部員が伺うと「勝ってこい」といわれたと聞く。私自身お話しすることはなかったが忘れ得ぬ人である。当時倉田(東洋工病院)、難波(尾道病院)、絹谷(記念病院) 瀬戸(第一内科入局後夭折された、予科練におられ、ユーモラスな方であった)、十時(海田町開業)、藤谷(東京都開業)、林(旧姓熊谷 トヨタ病院)、児玉格(天満町開業、修道中時代からの名選手、全広島代表、国際試合出場)、天本(第一内科)、木村(松永市開業)、青木(第一外科)、西亀(倉橋町開業)の諸先輩がおられた。ボールも満足に買えず、靴も左右が異っていたし、ユニフォームもなかった。しかし和気謎々とした雰囲気で、豪洲軍と親善試合をし「チャプ。チャプ」(食事の俗語だろう、広に駐留していた当時としては、上等な食事だった)にありつくのが楽しみだった。ために臨時入部される先輩もおられた。
 この年、岐阜で徳島大に1一1抽選で敗れた。故荒木主将に済まないが相言葉だった。
 翌二十九年、卒業生はなかった。部員に斉藤君(第一外科、海上自衛隊)を迎えた。江戸っ子で色白の美青年であった。そして級友大野君(旧性金原、広島逓信病院皮泌科)が入部してくれた。試台度胸、カンのよい選手で闘志はすばらしかった。
 大会は徳島であった。好選手が揃い充実していた。しかし決勝で2-1で敗れた。全くの惜敗であった。決勝点を入れられたときのGK 大野君の顔が忘れられない。そして児玉格主将が大腿部膿瘍、無数の打撲傷と満身創痍で戦い抜かれた姿と、木村副将の蒼白な顔附きで快足にまかせ闘志をグランドにたたきつけていたのが印象的だった。この時勝っておれば此の度の偉業は西医体史上唯一の記録となっていただろうと思うと済まない気がする。
 昭和三十年、倉田、難波、十時、瀬戸、藤谷の諸先輩を送り出した。チームは弱体化した。新らたに斉藤君(第一内科、音戸病院)、福馬君(第二外科、尾道病院)を迎えた。そして級友沖野(可部町開業)、清水(慶大脳神経外科) 両君が入部してくれた。斉藤君は「こざいとう」と呼ばれ、一年先に入部した「おおざいとう」と共に私共の卒業後最も苦しい時代に何れも主将として頭張り通して呉れた。特に「こざいとう」は原爆で火傷をうけた身であったが、そのハンディを口にしたことは一度もない後輩に今でも頭が下る思いがする。
 その年は京都で大会があったが、冒頭に記した。当時の想い出の一つにゴールインした球を林先輩がかき出して一点損した状景が目に浮かぶ。福馬君はヨット部再建のために退部した。
 昭和三十一年、児玉格、木村、林、西亀、天本、青木の諸先輩を送り出し、チームは未曽有の危機に直面した。加えて清水君は父君が逝去されるとゆう不幸で退部した。永田、横崎、大野、沖野、私等は最上級となり、頭を悩ました。伝統ある部も消滅する危険性さへ及んできた。新入部員を勧誘することが先決問題となった。しかし級友平位、角谷、新谷(何づれち産婦人科)、寄田(第二内科)、真田(整形外科)の諸君と市原君(三十四年卒、整形外科)等が、ルールはどうにか知っているのでメンバーが不足すれば出場するからサッカー部はつぶすなと確約して呉れた。他に失念している方々があるかもしれない。この友情はサッカー部を想起するとき生涯忘れえないであろう。しかし、幸にも中前(第一外科)、土肥(第二外科)、竹中(泌尿器科、国立松山病院)、石川(整形外科、玉造厚生年金病院)、平井(産婦人科、尾道病院)の諸君が入部した。私達は安堵した。ここで平井君のことについて書いておきたい。彼は北野高校、西京大学とラガーであった。選手交代の認められない時代であった。よく練習した、そして黙々と道具係もしていた。しかしラグビーとサッカーは異質のものだった。恵まれた選手生活は送っていない。不平も聞いたことはない。そして試合中常に十二人目のプレヤーとして叱咤激励してくれた。如何なる劣勢時にあっても。同じ様な立場で忘れ得ぬもう一人がいる。梶尾君(泌尿器科、国立福山病院) である。三二年に入部したので彼と一緒にプレーした経験はない。常に「チームのため」に徹した男である。同様な立場は益田君(第一内科)にもみられる。彼は将来性をもっていたが宿癖の膝関節炎のためプレーを断念せねばならなかった。良き伝統を育ててくれた方々である。私は高校大学を通じて彼等の様な立派なスポーツマンを知らない。永い部史の中で銘記さるべき珠玉の様な方々である。
 この年ともかくもチームは出来た。大会は岡山で開催された。前年度準優勝のためシードされた。準々決勝は一―Oで神戸に勝った。この時監督児玉格、林両先輩が駆けつけて下さった。本当に嬉しかった。これが先輩が同行する先鞭であったと思う。準決勝は再度の延長の末O―Oで引き分け抽選勝ちした。この時籤をいた相手は大阪医大高山主将であった。彼は現在国際審判員として活躍している。児玉格先輩、白木岐阜大主将と並んで西医体史を飾る名選手の一人であった。
 得点一点のみで決勝戦進出とゆう珍事は記憶にないが事実である。優勝戦は岡山朝日高校出身者を主力とする初参加の岡山大に敗れた。この時点から岡山大は好敵手となった。この強剛岡山大を造りあげた頼前コーチ(広島附中、広高、岡医大、済生会呉病院)の手腕は敬服の他はない。この年は岐阜、広島の主力が卒業し、出したチームのなかったことは、岡山、広島にとって幸いであった。事実私達のチーム力は四年間で最低であった。新入部員は試合するには若すぎたし技術も未熟だった。しかし練習熱心だった。性根(しようね)があった。これが三年後に結実し昭和三十四年の初優勝に繋がった。雨と泥の大阪球場で彼等に胴上げの祝福をうけた。このとき涙がこらえ切れなかった。そして先輩級友の顔が走馬燈の様に浮んだ。終生忘れえぬ想い出の一つである。
 このように「万年二位」「拍手係り」のまま私達は卒業した。どんな小さな大会で優勝するとゆうことは至難の業である。しかし先輩から後輩へと通じる気脈は幾多の難事を超越して継承され、それが今日五連覇とゆう輝しいかたちで成就された。心から祝福する。
 伝統は一朝一夕に出来るちのではない。記録はのばすためにみる。上村部長、岩森総監督を中心に、また新らたな目標に向って邁進し不滅の記録を樹立してほしい。
 最後に終始苦楽を共にした、級友永田、横崎、大野、沖野、清水諸兄も同様な感懐にひたっているであろうことを附記したい。

サッカー部の想い出  斎藤泰造(三十四年卒)

 広大医学部サッカー部五年連続優勝ほんとうにお目出とう。私達の思いもしなかった偉業を成しとげられた事は、後輩の皆様方の平素の節制と激しい練習の賜と心からお祝い致します。
 小生、広の医大(当時はこう言っていた)に入学したのが昭和三十年。初めはサッカー部に入る気持は全然なかつた。丁度夏時分だったと記憶して居る。阿賀高校と医大サッカー部が練習試合をするのだけど、部員不足のため臨時に出てくれないかとの事で、唯何気なく試合に行き運よく勝ち、その後で飲んだ生ビールの味が余りにもおいしかったので、ついサッカー部に足を半分とどめた。其年の西医体は京都にて開催された。第一試合の相手校は忘れたが、京都学芸大学のグランドにて雨中の熱戦、左側のゴールボストに両手でつかまり左隅にすでに入って居るボールをネットに達する迄蹴り込まんとして、却ってゴールの外に蹴り出すユーモアプリ。即ち熊谷選手。とも角この試合は大差で勝てた。それもそのはず、広大には関西のエース児玉格選手の存在が光って居た。最終戦は西京極球場で岐阜医大と優勝戦。余りにも広い正規のグランドであった為と優勝戦でどうしても勝って児玉格選手の医学部卒業のはなむけとしたいと選手一同堅くなった事とで、パスが思う様に通らず遂に涙を飲む結果となった。其夜、祇園近くで酒を飲み電気のついて居たチョーチンをもぎ取り、店の人に追われてタクシーで逃げた様な記憶がうっすらと残って居る。中でも木村先輩のカモシカぶりは背が高かった由か印象的である。
 小生、此時迄旅行と言うものを程んどした事が無く(勿論学校の集学旅行も行った事がない。) 団体で寺に泊まったりした事は生れて初めて。だから此様な団体生活が如何に愉快なものである等と想像だにしなかった。当時の児玉(格)、木村、天本、熊谷、横崎、児玉(格)、永田、沖野、斎藤(実) の諸先輩の理解ある指導により寺での生活は小生にとり終世忘れられない程楽しく過し、サッカー部に身をゆだねる決心をした。
 翌年は岡山にて西医体が開催された。当時はサッカー部にも決まったユニホームが無く、児玉(求)、永田先輩達の努力の結果だと思うが、着古したラグビー部のユニホームを着て縞馬よろしく走りまわったものだ。岡山でも又雨の御見舞を受けた。忘れもしないが、岡山大との試合だったと思うが、横崎先輩のものすごいヘディング・・・眼鏡が飛散した。此時も児玉(格) 監督の指導を受け優勝せんものと大いに張切るも敗戦。途中クリーンシュートを失敗した土肥選手、水溜りの水を口に含んで頑張る。
 翌々年の西医体は福岡の九大グランドにて開催。児玉(求) 監督のもとで初めて新品のユニホームを着て出場するも京大に負けた。この試合で最も印象的であったのは喜多村選手のハンド。何と言ってもハーフライン上で頭上を飛越さんとするボールにジャンプよろしく飛びつく。(無理もない、彼はバスケットやって居たから) あまりの事故笑声すらすぐには出なかった。…….いや" はや。
 以上サッカー部生活中深く印象に残って居る事柄を書いてみたが、我がサッカー部連続優勝、全日本医大サッカー大会優勝、部誌の作製と成長目ざましいものがあり将来をたのしみにして居る。

初優勝の一経験から一  中前恒則(三十五年卒)

 東京オリンピックを契機として、サッカーの愛好者が増加し、三国対抗、日本選手権、日本リーグと漸次水準の高い試合を見る機会に恵まれ、日本でも一昨年あたりから、サッカーブームと言われるに至った。特にメキシコ五輪サッカー予選での日韓の激突には六万の大観象が国立競技場を埋め、真剣試合を見せられるに至ってその頂点に達した。
 私の如く、幼い時からサッカーに親しみ、愛好して来たものには、今日のサッカーの隆盛を見るに感概無量であり、幾度かのテレビの国際試合を熱狂的に見るに際し、西医体の初優勝時の感激を思い起す昨今である。  翻って、私の最も情熱を燃した在学中の西医体の成績は、二位(三十一年)、四位(三十二年)、四位(三十三年)、優勝(三十四年)であった
。  一年生の時は現在の第二外科の医局長である児玉求先生(HB) が確か主将をつとめておられ、その他整形外科助教授の横崎先生(HB)、開業しておられる沖野先生(FB)、大野(旧性金原) (GK)が主力メンバーで、三年二年生が各一人で、残りの五人は一年生の新人であった。得点一で優勝戦まで進んだのは今日では考えられない事であろう。結局岡大に敗けた。
 一年生の西医体後、私は主力選手の抜けたチームを三年計画で優勝せしめ得る様計画した。二年生の時、茶幡君、吉永君、三年生の時岸君、伊藤君、上綱君を得て、この年準決勝まで進んだが、私の一年生の時からの宿敵岡大に終了五分前迄の二対一の優位を同点にされ、結局抽選敗をくった。実力では、私の計画より一年早く、優勝を勝ちとるに十分の力はあると思ったのだが、今迄優勝経験のない精神的弱さと主将としての私の統制力の弱さからで、今だに悔やまれる。四年生の時は岡田君、西亀君と医進から優秀な選手が参加し、大阪市大(?)、金沢大、岡大、岐阜大を敗り初優勝をとげた。全くの苦戦の連続で、主将は同級性の梶尾君がやって居たが抽選で金大、岡大に二回とも勝っと云う戦負師を主将と仰いだのが全くの幸であった。又当時京大に内地留学しておられた児玉先生が監督として全試合採配下さったのも幸した。
 優勝と云う感激は九年経過した今日でも、全く当時と変らない。どんな小さな大会で優勝と云うことが難しく、且つ偉大なものかを知った。
 外科医として毎日忙しく送っている私であるが、今にして思えば、サッカーによって、鍛えた体力、粘り、闘志が又チームワ1クが大いに役立って居るかを知る。
 又現在医局長をやっているが、主将として、チームを統制して来た経験が意外と役立っているのである。 又優勝を通して知った勝者、敗者の歴然とした差、区別は、人生に於ける競争と云う現実の姿に、常にはっきりした印象で自分を叱咤激励しているのである。
 若い学生諸君、サッカーと云うもっとも面白い競技で、大いに体力と闘志を養い、勝負のきびしさをあじわって、人間形成につとめてくれる様希望する。

霞町に移転のころ  茶幡隆之(三十六年卒)

 私が教養部より学部に進学した時、医学部も本格的に呉から霞町に移転が行われた頃でした。進学式の日医学部のグランドの前で先輩の中前(上村)、土肥(星野) 両先生に呼びとめられて、言葉たくみに誘惑されて入部したものです。当時部員は少なく四年に大斎藤(上村)、三年に小斎藤(浦城) 先生と一人づつ二年に中前、梶尾(国立福山)、土肥、平井(尾道農)、石川(整外)、竹中(国立松山) 諸先生で、我々のクラスが吉永(日新)、河村(精神)、山木戸(和田)等でほとんどが一、二年でしめていました。
 その頃、部室もあっちこっちの小屋を転々としていましたし、ボールはこれまたつぎはぎだらけの卵形で、これの修理は下級部員の仕事でしたし、ヘッディングすれば縫目があたれば大変痛く、蹴って真直ぐとべば先輩からあたりがわるいと言われたものです。ユニホームは呉時代先輩が英軍のラグビーチームから払下げをけたとかのダブダブのつぎはぎだらけのもので、特に土肥先生の大きい横ジマで、腹部に大きい円形のつぎのあたったユニホームは印象的でした。したがってこれでは西医体にもいけず九州での西医体は広大本部の赤いユニホームをかりて出場しました。
 まもなく私はマネージャーをいいつかって最初の仕事はユニホームをつくることでした。当時は金もなく、先輩からも百円.〜二百円程度あつめた時代ですのでスポーツ店から二〜三千円のユ二ホームを買うのは夢の話で、結局、土肥、梶尾先生の厚意で、白いボロシヤッを買い集め、これをエンジ色にそめてこれにネームを入れてまがりなりにも我々のユニホームが出来ました。
 次の仕事はボールをつくることでした。当時真鍋助教授(上村、呉にて開業)が監督だったと思いますが、私が、サッカー部にボ―ルが欲しく、これがあると練習に目標が出来、更に強くなるだろうと話したところ、なんとかしましようと申され、しばらくして真白いボールが一ヶ医学部のグランドにあらわれたのです。更に、上村教授に呼びだされて、ボールをもう一つつくってやろうと云われた時には、大感激、上村教授の顔が神さまにみえました。しかしこれまでには岩森先生をはじめ諸先生の御後援のあること。は忘れられないことです。ついでながらこのボールはその後、広島市民球場での初の国際サッカー戦であの全日本とソ連のロコモーティフ(?) のナイター戦に使用されたことは記念すべきことでです。
 この様に、呉から霞町に移転して二年間のサッカー部の苦難の時代に中前主将を中心に部員もよく練習にはげみましたが、加えて諸先輩の心あたたまる援助と激励が、更に梶尾主将時代、大阪での初の優勝へとつながったものであると確心しています。

サッカー、この楽しいもの  伊藤隆明(三十七年卒)

 後日談をさしてもらえば、我々の時に広大としては初めて西日本大会に優勝、そして東日本大会の曖勝チームにも勝って医学部のチャンピオンになれたこと、我々のクラスには上綱、岸、関口、八木、渡辺、小生と六人もサッカー部員がいたことなどが自慢のタネである。が、懐古談は八十の老人でも出来るので今日は止めておく。
 サッカーは昨日までやっていたような気分でいるのだが、医局対抗の八人制サッカーをさしてもらってみると残念ながら学校を出てから一音とはいわないまでも半昔以上がたっていることを身に痛く感じさせる今日この頃である。ところで医局対抗やら、医学部OB対原医研OB の定期戦(?) やらのアレンジメントを毎年現役の諸君にやってもらっているのは大変ありがたい。老兵達は前の晩から心をわくわくさせてこのOBの試合を待っているからである。先日もサッカー部の先輩先生に飲み屋でお合いしたが、明日から禁酒だとおっしゃる。何故かというと、三日後の例のOBの試合に備えてとのことであった。0 B試合を心持ちするのは小生のみではなく、可成りお年をめされた先生も同じだということが分って、サッカー話を肴にアルコールのメーターを上げたことであった。中には半日もかかる遠方より、この八人制サッカーの為にかけつける先輩先生もある。卒業後もこのような心の若さ、ファイトがいつまでも残ることが、サッカー部に籍を置いて得る一番貴重なものであろう。現役の諸君、どうか青春をボールに燃やしてサッカー魂を培って下さい。その培ったものは一生君についてまわることだろうから、そして、面倒でも時に老兵達の若さのはけ口にOB試合をアレンジしてくれたまえ。

サッカーの香り   岸 明宏 (三十七年卒)

 この原稿は二度目のものである。最初に書いたものはコのあるものであったが、突如それを没にして表記の様な題名にし、筆にまかせて書いてみた。この拙文を読まれる方は知るよしもないが、読まれる方は少くとも脳味噌に多少なりとも余裕の残されているお方だろうと思っている。最近の報告によれば三十才を過ぎれば少からず動脈硬化が多少なりともみられるとのこと、私はその一人であるが今回はそれ以前の柔軟な頃の小学時代から大学時代に覚えたスポーツの香りを思い出して、その中でのサッカーのにおいについて書いてみた。野球のにおいは小学、中学時代に嗅いだにおいである。攻守の交代毎に休憩が出来て大人共は煙草を一服決って付けるので青白い煙と共に青空の下に渋特の香りが去り、時には化粧品やボマードのにおいが入り乱れ、雑談とヤジが一枚加わり、しかも相当体力も余裕があり、色気があり過ぎる様な気がしたのである。しかし、それを気にするでもなく泥と汗くさいサッカーのにおいを嗅ぐことになった。特に田舎育ちの小生などは、サッカーのメッカ広島に出て来れば、「山猿" と呼ばれていたのだから、そのにおいたるや強烈なものだったろう。素足で蹴る足はすりきれ、赤く腫れあがり、鼻も喉も乾ききった時の香りは亦格別であるが、田舎の時代と医学部の時代とは、ある程度の共通性があった様である。
 それは恐らくサッカー気狂いが創り出すにおいではないかと思うのであるが、そこにはサッカーという媒体を通して出て来る純粋な、においではなかろうかとも思っている。「先輩も先輩であれば後輩も後輩である。」と書けば先輩諸兄は後輩が優秀であっても早合点してはならない。先輩はほめられると、すぐ、うぬぼれる癖がある。(関係ないかな!)ともあれ試合に勝つことは目標の一つに過ぎないのであって、それ以外の平行した目標を忘れては試合に勝っても何んの意もなく、それ迄の努力は時間の浪費にすぎないであろう。その様なにおいこそサッカーのにおいの様に覚えている、が、しかし、考えてみると、これはサッカーに規定されないで共通の香りは各種のスポーツに存在するはずであり、はたまた、スポーツ界にとどまることなく社会各界(医学界も含めて)にも、においを分折すれば、共通のフラグメントはあるはずである。その分割は各人によって夫々異る感覚として持っているのであるが、その「におい」は何んらかの形で表現すれば同じものになると確信している。尻切れとんぼになったが、この続きは別の機会に譲ることにする。サッカーのにおいを想い出につけ、今の仕事の上においても混り気のない純粋なにおいを嗅ぎ続ける様に努力している。
 終りに西日本医大五年連続優勝並びに部誌第一号発刊を心から御祝い申し上げます。

小感  関口善孝 (三十七年卒)

 日本一になったサッカー部、おめでとうございます。今から八年前、私が二年生の時に東日本優勝校の慶応大学医学部と非公式に日本一を争ったのが、サッカーの東西対抗の始りではないかと思います。これが昨年迄続いていたわけですが、今年から正式に各部とも東西対抗戦を開始するようになり、その第一回大会で見事優勝した我がサッカー部に心から祝福を送るとともに、大変誇りに思います。
 岩森監督をはじめ梶尾、中前、茶幡、岸各キャプテンの下に私はよく練習でしぼられ非常に苦しかったことを思い出します。しかし試合に勝ったびにその喜びを味うことが出来ましたし、負けた時には勝ったあとの喜びを再び味おうと練習していました。現在の部員諸君も同じような気持だと思います。この日本一の喜びを来年も、又その次の年もと味えるようにこれからも頑張って下さい。本当におめでとうございました。

褪せる事なき記憶をあらたに 初優勝の想い出  岡田 宏 (三十九年卒)

 昭和三十四年十月大阪ウツボグランド篠つく如く降りしきる雨もその雨足をとゞめ、準決勝対金沢戦の成行きや如何にと見つめる如し。雌伏重ねる事有余、広大附中の黄金時代その一角を負う経験を有した児玉求先生なる名伯楽を得、部員一同宿願の優勝杯えと一歩亦一歩と近づきつつあつた。
 敵方の主将CH林、長身にメガネ光らせ敵ながら貫禄充分。我が方はと見れば、小肥りの梶尾主将を中心に(当時学四、現在泌尿器科)、扁平足の中前(学四、I外科)、忍びの者思わせる横走りの土肥(学四、二外科)、ドタ足の竹中(学四、泌尿器科) パテラで相手の急所目がけ専らツブシ屋を専任したパテリングの平井(学四、産婦科)、バックの要、文字通りチームのまとめ役となったCH茶幡(学三、泌尿器科)、絶妙のアシスタント誇る長身痩?RW川村(学三、精神科)、オール西医体のエースゲームメーカー岸(学二、I外科)、最も信頼度の高いFW伊藤(学二、原研病理)、馬蹴りの上綱(学二、2内科)、飛び蹴りの渡辺(学二、2外科)、ヘッディングの名手関口(字二、2内科)、安全第一バックの手本、八木(学二、小児科)、GK岡田(医進二年、病理)、新入生として入部せし一年目よりイントゲッターであった益田(医進二年、I内科)、入部当初より大器なりし西亀少年(医進一年、2外科)。
 “ピリー"鳴り響くレフリーの笛、キックオフ泥濘の中走りまわる双方選手、切りさく様な監督さんの洞間声、膠着状態にたまりかねたLH西亀、ボールをキープ、相手RHを抜きざま矢の様なロングシュート、どっとあがる喚声、ゴール右隅バーすれすれにつきささりし。
 フォワードは勿論パック、キーパーに至る迄駆けより飛びあがり西亀はもみくちゃ、片手をあげ飛びあがりながら場内の大喚声に応える若冠十九才西亀。さり乍ら泥濘の中セオリー如くあたかも追撃砲の打ち上げにも似てゴール目がけ降らせる敵のロビング。ボールも見ずゴール目指し殺到するフォワード。その年初めて梶尾先輩に代りしGK岡田バーすれすれに落ち来るロビング、キャッチの瞬間頼りなきキーパーを叱咤すべくゴールうしろに控えて呉れおりし梶尾先輩思わず「パンチ」と叫んだ、何をうろたえたかGK右手はパンチ、左手はバー。ボールはちぐはぐな両手の中で二、三度まわり頭を越えてゴールイン、まさに痛恨一世一代の大失策、怒り狂う児玉監督、梶尾主将。タイムアップの笛、引き分け。衆目の中、主将の引く抽選、墨黒々と書かれし“次回に進む!"。優勝戦対岡山、前日の熱戦の與奮未だ醒めやらぬ我がインブン、まさに敵を呑む気迫。再三のチャンスをのがすフォワードの不甲斐なさに地団太踏む監督、”伊藤頑張れ"の声にこたえ泣き乍ら走りまわる伊藤隆明、合わせるLW竹中先輩よりのセンターリング右足にあてボールとともにゴールイン、しばし立ち上れず湧きあがる大喚声タイムアップの笛高らかに鳴り、先輩の悲願ここに結実し見事初優勝。号令なく打ち合わせなく思わず児玉先生に駆けよるイレヴン、流れる泪もぬぐわず空に舞う求先生の泣き顔。
 先輩諸兄はじめ部員一同、執念こもる抽せん勝にての優勝戦進出のため予定の宿泊費使いはたし、電報為替の催促せるもの、親戚を尋ねるもの続出せり。旅館大黒屋の主の持参せる優勝祝を前に、文字通り勝利の美酒に酔い痴れ踊り歩き手の舞い足の踏む時を知らず。広島より駆けつけて下さりし岩森先生をはじめ諸先輩、在阪の諸先生のねぎらいの宴は道頓堀の“コーリン”にひきつがれ夜の果つるを知らず打ちつづいた事だった。
 先輩、現役の区別なくまさに全員一致、涙と汗にて勝ちとりしカップ、本年五年連続優勝で再び他処へ行く事のないこのカップ“昭和三十四年広島大学医学部" と書かれし白いリボンを見るにつけ走馬灯の如く児玉監督とイレブンの顔が浮かんで来る。

雑感  清水裕弘 (三十九年卒)

 此の度広大医学部サッカー部が五年連続優勝をなしとげ優勝杯を永久に我々の手許にとゞめておく事になったがそれまでには選手諸君の努力と共に先輩諸先生方の温かい援助があった事は忘れてはならないと思う。さて今度部誌を造るから何か書いてほしいとの事なのでの入部していた四年間をかいつまんで書いてみる事とする。
 私がサッカー部に入ったのが学部の一年生の時で丁度その年の秋西医体が広島で開かれ我々は準備の為にかり出され疲れていたにもかわらず優勝出来た事は今から思えばまったく幸運にしか思えない。優勝戦の後半先輩が声を枯らして激励して下さりこんな良い先輩を持って本当にサッカー部に入ってよかったと思った。
 次の年には京都で西医体が開かれ決勝戦迄進出したが負けてしまいその上部員の大部分が最高学年だったので来年はどうなる事かと心配したけれども主将以下頑張って翌年熊本の地に、帰りには坊主頭になるなど考えもせずに勇躍乗り込んだ。しかし勝負の世界には思わぬ所に落し穴があるもので調子が出ぬまま二試合目の準々決勝で涙をのみサッカー部始まって以来の悪い結果となった。宿舎に帰って主将以下全員監督の前で坊主頭になり反省をした。その時の気持ちは情けなさ、くやしさが一杯で来年からはこんなみじめな姿にはなるまいと部員一同決意を新たにして熊本を後にした。その後一年間色々な人の話の種にはなったけれどもその時の気持がその後の部員の心の中に刻みこまれていたからこそ今度の様な快挙が得られたものと確信している。今度の連続優勝の始まりは次の昭和三十八年度の金沢大会から始まったものであるが過去諸先輩がたどった苦しい道程もあった事を忘れる事なく今後一層努力してほしい。最後に一つ我々のするスポーツはあくまでも学生のスポーツだから学生の本分を忘れずにしてもらいたい。ある先輩が近頃サッカー部には学生らしからぬ者がいるので会合にもあまり出席したくないと言われたがそんな事を言われない様な部になってほしいと思う。

西医の思いで  益田 厚 (三十九年卒)

 日本のサッカーが急速な発展をとげている現在、広大医学部が西医体五連覇をとげたことは非常に喜しいことです。
 西医体と云えば色々なことがつい昨日のように思いだされます。私が初参加したのは昭和三十三年名古屋、三十四年大阪での二度の抽選勝による初優勝をあじわい、三十六年マネージャーと京都へ神戸大学に三連覇をはばまれた事、又合宿で黄金山まで走つたこと、でも何んと云っても忘れられないのは三十七年熊本大会で我がサッカー部始まって以来ペスト四より転落と云う苦い経験を味い部員全員丸坊主となつたことです。この大勢の坊主頭には熊本の人もさけて歩いてました。
 私は西医体評議員でした為最後まで熊本で坊主頭をさらし広島に帰ってもボリクリで非常にこまりました。でもこれを境にして五連覇をとげさらに連続優勝への土台をきずいた事を思えば必ずしも熊本で坊主になつたことが無意味でなかったとなつかしく思いだされます。さらに我がサッカー部が発展することを願ってやみません。

坊主になった話 水戸正典 (三十九年卒)

 OBとなった現在、私はやっとサッカーのおもしろ味と云うちのがわかり始め、テレビのゲームに熱中するまでに至ったが、現役時代にサッカーをやっていて楽しいと思ったことは一度もなかった。それと云うのも医学部二年の冬まで、私のサッカーに対する知識ならびに経験といったものが、手を出してはいけないスポーツで球を足で蹴ってかこいの内に入れる団体球技程度のあったためである。
 その私が名誉ある広大医学部のサッカー部員となったのは、足が速く、スタミナと根性のあるところを買われ、同級のO君の執拗なる勧誘(おだて)に負けたからであったが、実状は部員の絶対のな数不足を補う為であった。考えてみれば誇り高き広大医学部サッカー部の歴史にも、かくのごとき苦しい時代がほんの六、七年前にあったと云うことである。
 私は入部するとまずウイングを練習させられたが、サッカーを知らない私にはとても勤まるポジションではなく、次いでハーフ、最後の年は補欠でフルバックと私が本来あるべき姿に落着いたのである。
 入部した翌年(学部三年)の熊本での西医体に私はサイドハーフとして出場し、闘牛の牛のごとく夢中で走りまわり疲れ果てたところでハーフタイムとなった。その時監督のI先生から特にいろいろと注意されたがサッカーを知らない私には結局理解出来なかった。今から思えば素人の私と一諸にゲームをぬらねばならなかった部員諸氏には全く迷惑な話であったことだろう。準々決勝で岡大と対戦し2-1で負れ全員坊主になった訳だが、試合前から岡大に負けたら頭を丸めることは部員の間で暗黙の約束ごとになっていた。しかし実際に負けてみると坊主になるのはいかだと云うものが出て来た。それは当然のことであつたが、監督のI先生のいない間にキャップのO君が全員を集めて坊主になるかならないかを話合った。私は「約束は約束だから坊主になろう」と云ってしまった。この一言で全員坊主ときまったが私が当時ヨット部の主将をしていたのでO君の立場とか気持がよくわかった為に柄にもなくあの発言になつてしまったのであろう。I先生が部員をねぎらつてビールパーティーをやって下さったが、全員坊主の部員をみて悲しそうな、嬉しそうな顔をなさつて「ま、ビールで。飲んで又、来年頑張ろう」とおっしゃった。私達は敗戦にもかかわらず負けたものにありがちな愚痴やら暗さといったものを持たなかった。それは恐らく頭をまるめると云う単純な行為が敗戦の我々の心理に好影響をもたらしたものであろう。思えは坊主になることは古くから東洋にあった風習で大和民族にとってはなにもめずらしい行為ではなかったのである。けれども日本に住みなみら坊主頭なるが故に可成りのあいだ、いろんな面での不自由を余儀なくされたことは事実である。 翌年から西医体で五年連続勝をとげ、その快進撃はいまだ止みそうにない。

サッカーと私  新田 康郎 (四十年卒)

 私がサッカーを知ったのは中学に入学してからであった。
 以来中、高と専ら試合を観戦し、自校の応援に熱中し授業時間の休みには時々同級生とボールをけってすごしていた。
 その頃からサッカーは見ていてもおもしろいし、やっておもしろい最も男性的なスポーツであると思っていた。
 大学に入学し、教養部二年の時であつただろう。同級の西亀、竹林両君がすでに入っていた我が医学部サッカー部に経験者でなくてもよいからという事で入部させてもらった。当時は茶幡先生がキャップであつた。それ以来、学部二年迄合宿に遠征にと愉快にすごしたが、学部三年の時変な気をおこしてしばらく退部させてもらうという我ままをした。サッカーは最も体力を消耗する激しいスポーツの一つである事は無論であろう。
 サッカーをしていて何が楽しいのか。
 あまり公式な試合に出場した事のない私にはまず、合宿なり普段に於て汗をかきかき、激しい練習に耐えて無事終った時に爽快感を感じる事である。
 それから絶好なコンディションのもとで圧倒的な勝利をおさめた時は無論であろうが、不良なるコンディション、たとえは学部一年の時であったろうか警察学校グランドでの対千葉大戦に見られたような、激しい雨の中でお互い泥まみれになり、ボールをけりあい、試合後一緒に風呂に入って泥を落した後の何ともいえない充実感。
 私は今迄そういう気持はサッカー以外の事で感じた事はない。今後も大切にしていきたいと思う感情である。

無我夢中の初優勝  西亀 正之(四十年卒)

 入学、入部、その秋には初優勝と私には非常に思い出深い一九五九年であった。サッカー部に入部して先ず驚いたのは、暗い、そこら中に悪臭を放つらす汚れたユニホームのある部室であった。(尤もこの部屋を彼女とのデイトの場に使用した先輩もいたが・・特に名を秘す) ラグビー用のユニホーム、ボールが又ラグビー球の如く長細く歪んだもので、一部縫い会わせ、又一部は赤いチユーブの見えるものがあった。これで事足りていたのだから当時のキック力は想像出来ようと云うものです。さて西医体の話に入るが、我校の実力を知らぬ私は、教養部の最後の試験と第一戦対阪大戦が重なった。(大阪大会)、試験後汽車で直ちに出発したかつたが、安心出来ず、いらいらしながら電報を待った、7-0 勝なる良報と共に大阪に向った、第二戦、第三戦は共に雨中の大接戦共に梶先輩の日頃の成果が功を発揮、右腕の勝利(この様子は梶先輩にお聞き下さい) 決勝戦は対岐阜大学、我校優勢に試合を運ぶ全員防禦に会い容易に得点出来ず、延長に致る。0-0の延長前半、約三十Mより“このやろう"と蹴った球が、まぐれにも、キーパの頭上を越して、ネットに穿った、これに勢付いた我校は3-0で優勝、終了ホイッスルと共に中前先輩に、「良い卒業記念をくれたのー」と背中を叩かれたのを覚えている、がまだピンとこなかった。涙を流しながら、二点目、三点目を得た、伊藤、清水両先輩の気力、児玉求監督のハスキーボイスがこの試合の為一層強くなったと思われる程の適切なアドバイスと声援等。梶尾先輩の運の強さ、私の蹴った偶然に近い程の得点、一見幸運の様に思えるが確かにこの「ッキ」を呼ぶだけの努力を全真一体となって成し遂げた結果であると私は思う。その夜、道頓堀でのカクテルの味!スタンド、”コーリン“に座った全員の顔、今でも目に浮んで来る。
 帰広後の中野での祝勝会も又、思い出深い。優勝カップは、錆びた汚れたものであるが、そのリボンには、岐阜大、岡大のものばかり、そこに一段と大きい、広大のリポンが付け加えてあった。このカップに満たされた酒、オメデトウ、.....と廻って来る、この時始めて、ああ優勝とは良いものだなあと感激が湧いた、この酒は何級であったか覚えていないが、新入の私は最後に飲み干した。美味しかった!尤も皆んなの唾液のエキスの為か知れないが?この会での児玉絡先輩の飲みっぷりは一段とさえていた、「わしらはいつも二位で、このカップで一度飲んでみたかった」と嬉んでいただいたのを忘れる事が出来ない。この優勝以来六年間ハーフを守る破目になった、しかし二度とこの様なシートは経験しなかった、以来、四回優勝、東西対抗、坊主頭、等の想い出が走馬灯の如く、過ぎ去って行く、今になって、サッカーをやって本当に良かったと、つくづく感じる次第であり、機会があれば、まだまだ書きたい事で一杯である。

後援会の事 宮崎正毅 (四十二年卒)

 先日サッカー部より部誌を作るとの話を聞き、私がマネジャー在任中の二年間に作りたい!と念願しながら実現出来なかった……それがこのように早く実現した事に驚く、と同時に非常に、うれしく思っています。
 立派な伝統と歴史を持つサッカー部が今年の鹿児島での西医体五年連続八度目の優勝、四十二年度全日本医体王座決定戦優勝という輝かしい成績を修めるまでに発展したのは、チームワークと共に多くの先輩を含め、部員の努力、熊本大会での敗戦を全員坊主となり翌年の必勝を誓った闘志、があった事、それをバック、アップする他の運動部にさきかけて作られた立派な後援会の存在そして会員諸先生の暖かい御指導と御支援があったからだと思います。
 機会あるごとに後援会が出来る迄の苦労話しを聞いていました。今もグランドにあるゴールボストを作る苦労、練習時のボール不足等...その後援会も西医体金沢大会での優勝をきっかけに、岩森先生、児玉求先生を発起人として、後援会会則、趣意書が出来上り、当時マネジャーのいな川先輩の努力により、その基礎来上り、その仕事を以後2年間引き継いだのですが、最初は様子みはつきりわからず、戸惑ったり失敗したり、全く悪戦苦闘の連続でした。それでもこの時期か、サッカー部の先輩の暖かさに直接ふれる事が出来、又、部の昔話し、エピソードを聞き、サッカーの楽しさ、学生時代の過ごし方等々を聞く機会に恵まれ、僕にとって有意義であったと同時に楽しかった、と心に残っています。
 古い名簿を参考に趣意書と後援会会則を持ち市内の病院、大学病院、呉にとポンコツパイクで走り回り、ある時はサッカー部の名を聞き怪訝そうな顔で断られ、ある先生からは訪問を喜ばれ、部の現状を大いにしゃべり、名簿外の先生迄紹介され、紹介状を頼りに訪れ、入会していただき思わぬ喜びを味ったり、又医局に先生を訪ね、先生を目の前にして○○先生はいらっしゃいますか? 僕ですが……シマッタと顔をほてらしながら、実はサッカー部から云々……等々の末、新しい名簿を作ってみると約五十名の入会者があり、年間八万〜九万円の会費を集める事が出来、広範囲の活動をしており優秀な選手が続々と入部し、試合数、練習量も多い部にとって、十分なボール、道具の購入、ユニホーム新調と非常に予算面で楽になりましたが、後援会の出来た後が大変!
 会費を集める時のみ顔を出していたのではやがて縮小し、名はかりの会になり、元のように身近かの先輩の寄付でのみ活動する状態になったのでは多数の先輩の苦労がだいなしになるし。そこで暇さえあれはしはしば先輩の所に顔を出し、幸いサッカー部は春に慶応、千葉大、日医との定期戦、岡山大、神戸大との三大学、夏前に全関西蹴球大会(今は廃止) そして夏に合宿、秋に西医体、その間に社会人チーム等々との練習試合を行うので、試合、日時、場所の通知、試合後には経過と結果の報告と次々プリントし、配る事により、ある程度、先輩と部の密接な連絡を取る事が出来、又、後援会を身近かなものと感じるようになったつています。
 最近聞く所によると、後援会もますます大きくなり、充実したものとなっている様子、この強力な後援会をパックに持つサッカー部が西医体での連続優勝記録をのばし、益々発展する事を期待し又、そうなるものと確信しております。それにしてや、既に僕達が、後援会の末端に加わる事が出来、月日の過ぎ去る速さを痛感している昨今です。

主将雑感  林道義

 医学部サッカー部に入って早や六年の時が過ぎようとしている。思えば入学式の前から春季合宿に参加し、今は卒業した先輩達の中で初練習した事がつい最近の様に感じられる。
 一年生の時、西医体熊本大会で二回戦で敗退してしまい全員丸坊主にされ、負けたくやしさよりも、はずかしさでいつぱいになつたのを思い出す。初めて買ってもらった背広なのに坊主頭ではカッコが悪いので黒のハットをかぶって夜の町を歩いたのも今から思えばなつかしい。しかし学三、学四の先輩達のようにボリクリがなかったのは不幸中の幸であった。おかげで僕は中国人にまちがわれなくてよかったと思う。
 次の年坊主頭の仇と思つて金沢に勇んで出かけ、抽選を乗り越えて美事優勝!これを機に今年迄五連勝と破竹の進撃を続け、とうとう優勝カップも広大医学部サッカー部のものとなつた。
 今年第一回の全日本東西王座決定戦も東京医科歯科大学、東京医大を一蹴して医学部サッカー部日本一となつた。
 我々医学部サッカー部もただ部員の技術のみでこのような成績が残ったとはもうとう思ってはいない。僕が入部して以来、岡田、清水、西亀、井原、中村と優秀キャプテンが次々と登場し、若山、林(浩)と技術的高水準の部員が他の部員と溶け込み、岩森先生をはじめとして諸先輩が合宿、練習と面倒を見て下さったおかげである。
 練習場の事、広大本部サッカー部との事、等、種々の問題が残されてはいるが本当にサッカーが好きな頼もしい後輩達が今後もうまく下級生を育て、自分達も更に技術をみがいて行くだろう。
 この医学部サッカー部に入部していた事を僕は心からよかったと思っている。何故なら他のどの部にもない精神的きびしさが「強い故に敗けられない」という責任として部員各々の肩にのしかかり、勝つ為に必死で試合にがんばる支えとなり、又合宿での苦しい練習、うまい飯、休憩時間のマージャンの楽しさ、又部員の弾くギターに合わせての合唱、うちあげの時の大酒と歌とモンキーダンス、その後の流川、薬研堀への進出等先輩も後輩も部員が一体となつて非常に楽しい時をすごしたと思う。
 他の部には絶対にないと確心できる我々医学部サッカー部へ対する諸先輩達の愛情に毎年毎年あまえて来れた我々は非常幸福であった。
 最後に医学部サッカー部員に対して僕は練習中、試合中よく怒鳴り、文句を言い続けて来たが、本心は「このサッカー部には本当に良い奴ばかりだった。」である。

現役選手-の横顔

林道義 FW(主将) 附属高出 六年
ウルフのミチ、おおかみ少年のニックネームが示す如く、合宿中での叫び声にはすさまじいものがある。素晴しいスタミナの持主で、全学サッカー部で磨かれた足技と共に主将にふさわしい人物。夏の西医体ではStamach ulcer との闘いでもあった。

辰川自光 FB 宮原高出 六年
短身痩躯にあふれんばかりの闘志の持主。往年の名フルバックで、あたりの鋭さには定評があったが寄る年波とKnee jointの持病には勝てず、今年は遂にユニホームを着ないままだつた。通称「タッ」

三木邦彦 FW  修道高出 六年
素晴しいリズム感覚の持主で今年の西医体前夜祭ではアロハを着て活躍した。かつての坊主頭はとてもかわいかったとか。痔病たるhemorohids には勝てず、最近スパイクをはいていない。

宮岡繁樹 FW 附属高出 六年
マンガ、花咲か爺さん、枯木、しげ子、等の多くのニックネームが示す如くサッカー部随一の人気者、OLでのゴール前の詰めのよさは他の者をよせつけない。しかしながら今年の西医体ではゴールキーパー負傷のため一拠にGKまでさがり華麗なセービングを見せてもらった。

黒田義則 FB 主務 修道高出 五年
ワンゴールあげた事のある名フルパック。このゴールが敵ゴールか味方ゴールかは定かでない。最近の進境には著しいものがある。コンパの世話となると試合の時と同じ位頑張る。マーロンブランドによく似ていると人はいう。

林浩二 HB 附属高出 四年,
附属高チームの元主将。人一倍サッカーの好きな男で、サッカーのために生れてきた様なもの。 ブッブッ言いながら試合を運ぶゲームメーカー。スタミナ、足技共にウルフに勝るとも劣らじ。全学でもレギュラーメンバーとして活躍。又酒好きでもトップクラスに入る。

田中求平 FW 修道高出 四年
修道高が全国制覇した時のCF。勉学の程はよく知らないが今年一年は例年になくよく頑張った。試合中でも田中は知らなくても求平を知らない若はない位求平の名前が有名。「Q」と呼ばれ仲々の発展家である。

日高徹 FB 広島学院出 四年
高校時代は素晴しい選手だったらしい。勿論、今もそうである事に違いはないがワンゴールぶち込んだ事がある。大変律儀ものであるが、宮崎さんの抜けた後の大食いである。通称ピラ。

若山待久 FW 修道高出 四年
修道高が全国制覇した時の主将、アジアュースサッカー日本代表の主将を務めた事がある。人々からはサッカーの神様としてあがめられ、柔和な人格の持主で部員の人望を集めている。背椎分離症とKnee jointの持病に苦しんでいる。通称ワッカン。

星田昌吾 FW 修道高出 四年
この夏での合宿中麻雀のしすぎのためかどうかは知らないが、腰がたたなくなった事がある。彼の腰を落しての走法には何とも言えぬ味がある。酒飲みの大関。又、チイタカの情報通でもある。

土橋敬宏 副務 福山附属高出 四年
一時宴会屋とも言われた位飲む会合が好きで、酒の場にいなかった事はない。プレイはしていないが大蔵省がピンチになった時にはもみ手をして金を集めて来る。通称ドンパシ、フウテン。

奥平信義 GK 附属高出 三年
試合の度にケガをし、今年度西医体金沢大戦でもClavicular fracture 遂に家族の猛反対に会い退部を余儀なくされた。

財満一夫 未定 修道高出 三年
ハンドポール部の主将をやっていたのをスカウトされ我が部へ。最近入部したばかりで、現在のところ未知数。今後彼にかけるところの期待は大きい。今回の全日本医体ではキーパーに起用された。通称チャック。

田辺恭二 FW  附属高出 三年
小柄な体が仲々敏捷で牛若丸の様。スタミナもあるし気力株も十分。酒の飲みっぷりも素晴しく。飲むと必ずと言って良い程、つぶれるまで飲む。

林睦雄 HB 附属高出 三年
林ブラザーズの五男坊。高校時に培われた個人技と試合に黙々と臨む態度は立派だ。本部においてもレギュラーメンパーとして活躍。通称ムッチン。

原田達司 HB 皆実高出 三年
内面に秘めた素晴らしい根性の持主で、大学に入って彼程伸びた選手はいない。今では医学部の原田でなく全学の原田として通用している。柔道二段の武芸者でもある。遠征でチイタカに行かなかった事はない。Glaus とは浩二君の命名か。

児玉哲郎 FB 修消高出 二年
中距離ランナーとしてもいい足を持つ。西医体では陸上部に借り出される始末。最近の進境著しく当りは鋭いが、まだまだ鍛えられがいのある選手だ。

相模浩二 FB 修道高出 二年
部内一の長身の持主でファイトのかたまりの様な男。練習は人の二倍はする。大器だから現在のラフな所をけずり落し早く大成して欲しいものだ。三太とはある先輩の命名。

- 松村茂次郎 HB 附属高出 二年
入部当時の期待はサッカー部を背おってたつ男と目されていたが、試合中の骨折でブランクが出来一時スランプが続いた。現在やっと戦列に加わった。やがて必ずや我々の期待にこたえてくれるだろう。通称モジロー。

岩田文彦 FW 修道高出 一年
今シーズン練習試合ですでに二点もあげている。もっと自信を持ち練習に励めば将来有望。仲々頼もしい選手である。

沖修一 FB 佐高出 一年
いい体をしている。部の練習のみならず自主トレーニングで早く球になれて欲しい。現在のところ未知数だが根性とファイトで大成するだろう。

久保田茂夫 FW 三津田高出 一年
一年生のうち唯一人合宿に参加しヘディングが強くなった。試合中ミヌをすると必ず頭をかく癖がある。通称ヌル。

過去五年間 西医体成績

第十四回 昭和三十七年 熊本にて
一回戰 広大医5-0 長崎大医
二回戰 広大医1-2 岡山大医

第十五回 昭和三十八年十月十二日より 金沢にて
一回戦 広大医2-0 岐阜県立医大
二回戰 広大医0-0 大阪市大医(抽戰勝)
三回戰 広大医3-1 熊本大医
四回戰 広大医10-0 京都大医
決勝戦 広大医2-0 京都府立医大

第十六回 昭和三十九年八月二十九日より 神戸にて
二回戰 広大医8-0(1-0、7-0) 長崎大医
三回戰 広大医5-0(3-0,2-0)神戸医大
四回戦 広大医2-0(0-0、2-0)大阪市大医
決勝戦 広大医2-1(2-1、0-0)岡山大医

第十七回 昭和四十年十月十六日より 小野田にて
二回戰 広大医1-0(1-0,0-0) 熊本大医
三回戰 広大医2-0(0-0,2-0) 京府医大
四回戰 広大医5-0(2-0,3-0) 岡山大医
決勝戰 広大医4-0 (1-0,3-0) 金沢大医

第十八回 昭和四十一年十月十六日より 京都にて
二回戰 広大医4-1 (2-0.2-1) 神戸大医
三回戰 広大医10-1(3-0,7-1)久留米医大
四回戰 広大医6-0(2-0,4-0)大阪市大医
決勝戰 広大医3-1(2-0,1-1 ) 熊本大医

四十二年度の成績
三大学定期戦 六月十日、十一日 神戸大にて
広大医5-2(0-2,5-0)岡山大医
広大医1-1(0-1,1-0)神戸大医
神戸大医2-2(1-1.1-1)岡山大医

第十九回 昭和四十二年八月二十九日より 鹿児島大にて
二回戰 広大医6-1 (2-1.4-1) 金沢大医
三回戰 広大医8-2(3-2,5-0)岡山大医
四回戰 広大医2-1(2-1,0-0)神戸大医
決勝戰 広大医5-0(1-0,4-0) 熊本大医
通算八回、連続五回優勝

第一回全日本医体 十月三十一日、十一月一日 東京医科歯科大にて
優勝 広島大学医学部
広大医 5-2(2-1,3-1)東京医科歯科大
広大医 5-2 (2-2.3-0) 東京医大
東京医大 3-2 東京医科歯科大

広島大学医学部サッカー部後援会会則

第一章 総則
(名称)
第一条 本会は広島大学医学部サッカー部後援会と称し仮事務所を学務係内に置く
(目的)
第二条 本会は広島大学医学部サッカー部の輝かしい伝統を守り、更により以上の発展を遂げるとともに現役選手との交歓試合、後援会会員相互の交歓試合を通じて親睦を図りいつまでも若々しい精神と肉体の保持に努める。
第二章 会員
(会員)
第三条 本会の会員は正会員と特別会員に分かれ、旧広島県立医学専門学校、広島県立医科大学及び広島大学医学部のサッカー部に籍のあった者を正会員とし、そのほか本会の趣旨に賛同し広島大学医学部サッカー部の発展に協力援助する者を特別会員とする。
第三章 役員
第四条 本会に左の役員を置く
会長 一名
副会長 二名
評議員 若干名
会計監査 三名
庶務会計 一名
(選出)
第五条 役員の選出は左の方法による
1. 会長は評議会において推せんし、総会の承認を得る
2 評議員は会員中より選出する
3 会計監査は会員中より評議員会において詮衡し総会の承認を得、会長が委嘱する
4 庶務会計は会員中より会長が任命する。
(任期)
第六条 各役員の任期は一ヶ年とする。但し再任を妨げない
(任務)
第七条 各役員の任務は左の通りとする
1 会長は本会を代表し会議を召集し会議の議長となる
2 副会長は会長を補佐し会長事故あるときはその代理をする
3 評議員は本会の重要事項を協議する
4 会計監査は年一回会計を監査し総会に報告する必要に応じて臨時監査する
5 庶務会計に各種の通知とその議事の記録並びに会計の任務を遂行する。

第四章 会議
(会議)
第八条 本会は左の会議を持つ、定期総会は毎年西医体、全日本医体終了後に開き会計報告、役員選出、予算の審議、事業計画を検討し、その他必要な事項を協議する。評議員会は必要に応じて会長これを召集する。
第五章 会計
(会費)
第九条 会費は年額二千円とする
追補
尚 会費納入方法について具体的に毎月、三ヶ月、六ヶ月、一年一括払等の方法がありますがサッカー部宛、郵送、持参又は部員参上等の方法がありますが、この点についての御意見、御希望をお知らせ下さい。

広島大学医学部蹴球部後援会名簿

(昭和四十二年十二月二十日現在)
部長 上村良一 第一外科教授 広島市霞町二八十
副部長 真鍋欣良 外科開業 呉市本通十丁目
土方ョ己 外科開業 広島市矢賀新町二二七の四
児玉 彬  第二外科助教授 広島市南三篠町一二八八

<広島県立医専才一回生>
総監窗 岩森茂 原医研外科助教授 広島市宇品町十四丁目二二九の五五
服部進 内科開業 香川大川郡長尾町造田是弘八〇三二

<広島県立医専才二回生>
梶川 和敏 外科開業 広島市宇品町御幸通十四
岸槌 昭夫 内科開業 呉市海岸通五丁目
串田 秀夫 耳鼻科開業 広島市観音新町六九

<広島県立医大才一回生>
徳岡 昭治 第二病理助教授 広島市吉島東二丁目六の十八
横路 謙二郎 原医研病理教授 広島県佐伯郡五日市町藤垂園

<広島県立医大才三回生>
川本 充 産婦人科開業 広島市仁保町青崎一四四
村上 裕 耳鼻科開業 尾道市西御所町一丁目

<広島県立医大才四回生>
絹谷一雄 広島記念病院産婦人科 広島市千田町一○六二
倉田昭典 東洋工業病院産婦人科 安芸郡府中町一二0九の二 柳が丘団地一の二O三
十時一雄 小兒科?内科開業 安芸郡海田町東海田五五三六の二
難波資亭 尾道農協病院産婦人科 尾道市吉和町吉浦尾道病院医師住宅

<広島医大才一回生>
青木厳 立花診療所 御調郡向島町
木村憲司 耳鼻科開業 福山市今津町二〇六の一
児玉格 内科小兒科開業 広島市天満町七の二四

<広島大学医学部才一回生>
沖野宏敬 内科開業 安芸郡可部町中野
大野文夫 広島逓信病院皮泌科 広島市中山町一二三一
児玉求 第二外科 広島市牛田町早稲田区三二四
永田信雄 原医研外科 広島市東雲町七五二
横崎元雄 整形外科助教授 広島市霞町平和住宅医学部公舎

<広島大学医学部町三回生>
斎藤泰造 第一内科 広島市富士見町八の二一

<広島大学医学部第四回生>
梶尾克彦 国立福山病院皮泌科 福山市沖野上町
竹中生昌 国立松山病院皮泌科 松山市堀の内国立松山病院官舎
土肥雪彦 土谷病院 賀茂郡西条町下見区
中前恒則 第一外科 広島市康午北町一丁目二十の二十の二0二
平井信和 尾道農協病院産婦人科 尾道市吉和町尾道病院内医師住宅
石川文彦 県立広島病院 広島市観音町石川病院内

<広島大学医学部分五回生>
河村隆弘 神經精神科 安佐郡砥園町長束一五五の一
茶幡隆之 中国劣災病院泌尿科 呉市広町中国労災病院内
吉永文隆 日新製鋼呉製鉄所診療所 呉市岩神町一二三
山木戸道郎 第二内科 在米中

<広島大学医学部才六回生>
伊藤隆明 原医研病理 広島市白島九軒町一五の七
上綱誠光 第二内科 在米中
岸 明宏 加計町立病院 山県郡加計町立病院内
関口善孝 第二内科 広島市三條町三丁目六の七
八木哲夫 吉田病院小児科 高田郡吉田町吉田病院内
渡辺 繁 第二外科 広島市横川町三丁目

<広島大学医学部才八回生>
監督 岡田宏 第二病理 広島市元宇品別世界
清水裕弘 原医研内科 広島市康午北町七丁目四九四
益田厚 第一内科 安芸郡府中町鹿龍五四四六
上田正典 産婦人科 広島市寺町五の一五光広方

<広島大学医学部才九回生>
竹林修文 耳鼻科 安芸郡府中町四七四の二
新田康郎 小児科 広島市横川町二丁目
西?正之 尾道農協病院外科 尾道市吉和町尾道病院内

<広島大学医学部才十回生>
いな川魏 尾道農協病院?科 尾道市吉和町尾道病院内

<広島大学医学部第十一回生>
井原俊彦 北大自主研修生 札幌市二七条西五丁目 三光クリーニング幌北営業所内
中村雄二 広大自主研修生 広島市大州町一丁目一六○ 松浦方
宮崎正毅 広大自主研修生 佐伯郡五日市町揚下一四六八
村上雅治 広大自主研修生 広島市尾長町三四二堤アパート

<特別会員> 棍谷勤 外科開業 広島市舟入南町四の四四
島健 第二外科 広島市大手町一丁目五の二四

広島大学医学部蹴球部名簿
主将 林道義 六年生 広島市国泰寺町二丁目四の一八
宮岡繁樹 六年生 広島市千田町三丁目七二六樋野上方
辰川自光 六年生 広島市国泰寺町二丁目二の九三吉アパート内
三木邦彦 六年生 山口鼻玖珂郡和木村四五九
主務 黒田義則 五年生 広島市牛田町東区一七四
林浩二 四年生 広島市国泰寺町二丁目四s一八
田中求平 四年生 広島市舟入幸町一六の一一
日高徹 四年生 広島市白島町一七の110
若山待久 四年生 広島市皆実町一丁目110
星田昌吾 四年生 広島市千田町二丁目福岡方
土橋敬宏 四年生広島市皆実町三丁目九一五景山方
奥平信義 三年生 広島市宇品町十二丁目六七九の四六
財満一夫 三年生 賀茂郡八本松町字飯田四七九
田辺恭二 三年生 安佐郡佐東町三二七三の二○
林睦雄 三年生 広島市国泰寺町二丁目四の一八
原田達司 三年生 広島市皆実町二丁目五八十
児玉哲郎 二年生 広島市幟町八s二三
相模活二 二年生 呉市宮原通四丁目二八
松村茂次郎 二年生 広島市宇品町一三四六福島方
岩田文明 一年生 広島市復町七の一一
沖修一 一年生 広島市矢賀新町一の三五小P方
久保田茂夫 一年生 呉市海岸通二丁目四二

歴代主将及び主務名簿

昭和二十四年 徳岡昭治 山本武夫
昭和二十五年
昭和二十六年
昭和二十七年 荒木 寛 絹谷一雄
昭和二十八年 荒木 寛 倉田昭典 絹谷一雄
昭和二十九年 児玉 格 木村憲治
昭和三十年 横崎元雄 永田信雄 児玉 求
昭和三十一年 児玉求 永田信雄 斎藤実
昭和三十二年 斎藤泰造 中前恒則
昭和三十三年 中前恒則 茶幡隆之
昭和三十四年 梶尾克彦 茶幡隆之
昭和三十五年 茶幡隆之 上綱誠光
昭和三十六年 岸 明宏 益田 厚
昭和三十七年 岡田 宏 竹林修文
昭和三十八年 清水裕弘 いな川 魏
昭和三十九年 西亀正之 宮崎正毅
昭和四十年 井原俊彦 宮崎正毅
昭和四十一年 中村雄二 宮岡繁樹 三木邦彦
昭和四十二年 林道義 黒田義則

編集後記

 遂に出来あがった。一息つくと共に感慨ひとしおの思いがする。メ切りを過ぎても原稿は数部集らず、メ切り日は一応サバを読んで少しは早めにしていたものの一時はどうなる事か思っていた。しかしながら学生の気ままさと厚かましさに乗じ、執拗なまでの催促のせいか予想以上の原稿が集り、内心悦にいった次第です。それにしても診察或は学会準備、研究にと忙しい仕事の合間をぬい、苦労し原稿を書かれた事を思う時、この雑誌が、本来の目的たる歴史的偉業を、文字として残す事は勿論の事、先輩後輩のつながりを生み、いつまでも皆の手元にあって先輩を或はクラスメートを、或は若き日の自分を思い起すものとなる事を心から願わずにはいらない。
 最後にこの雑誌を編集するにあたり多くの先生方から有形無形の御助力を頂いた事に対し誌面を借りて感謝の意を表します。
「お断り」
無題の原稿には失礼とは思いましたが勝手に題を付けさせて頂きました。

昭和42年12月25日 印刷 昭和43年1月10日発行
サッカー部部誌 
発行 広島大学医学部サッカー部 
編集責任者 黒田義則

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