昭和38年(1963年) | 15 | 金沢 | 広島大学 | 1位 | 清水裕弘 | 児玉 求 | 岩森 茂 |
昭和39年(1964年) | 16 | 神戸 | 広島大学 | 1位 | 西亀正之 | 児玉 求 | 岩森 茂 |
昭和40年(1965年) | 17 | 小野田 | 広島大学 | 1位 | 井原俊彦 | 土肥雪彦 | 岩森 茂 |
昭和41年(1966年) | 18 | 京都 | 広島大学 | 1位 | 中村雄二 | 土肥雪彦 | 岩森 茂 |
昭和42年(1967年) | 19 | 鹿児島 | 広島大学 | 1位 | 林 道義 | 茶幡隆之 | 岩森 茂 |
昭和43年(1968年) | 20 | 名古屋 | 広島大学 | 1位 | 黒田義則 | 岡田 宏 | 岩森 茂 |
昭和44年(1969年) | 21 | 大阪 | 広島大学 | 1位 | 林 浩二 | 益田 厚 | 岩森 茂 |
昭和45年(1970年) | 22 | 岡山 | 広島大学 | 1位 | 林 睦雄 | 西亀正之 | 岩森 茂 |
昭和46年(1971年) | 23 | 京都 | 広島大学 | 1位 | 相模浩二 | 西亀正之 | 横路謙次郎 |
昭和47年(1972年) | 24 | 長崎 | 広島大学 | 1位 | 岡田芳和 | 横路謙次郎 | |
昭和48年(1973年) | 25 | 金沢 | 大阪医大 | 3位 | 本家好文 | 横路謙次郎 | |
昭和49年(1974年) | 26 | 和歌山 | 大阪医大 | 2位 | 住田佳樹 | 宮岡繁樹 | 横路謙次郎 |
昭和50年(1975年) | 27 | 鳥取 | 広島大学 | 1位 | 原田光雄 | 宮岡繁樹 | 横路謙次郎 |
昭和51年(1976年) | 28 | 京都 | 京都大 | 2位(PK負け) | 高永甲文男 | 横路謙次郎 | |
昭和52年(1977年) | 29 | 久留米 | 2回戦敗退(金沢大学) | 谷山清己 | 田中求平 | 横路謙次郎 |
昭和38年から昭和47年までの10年間は無敵の状態で、西医体10連覇を成し遂げています。
昭和38年(1963年) | 15 | 金沢 | 広島大学 | 1位 | 清水裕弘 | 児玉 求 | 岩森 茂 |
昭和39年(1964年) | 16 | 神戸 | 広島大学 | 1位 | 西亀正之 | 児玉 求 | 岩森 茂 |
昭和40年(1965年) | 17 | 小野田 | 広島大学 | 1位 | 井原俊彦 | 土肥雪彦 | 岩森 茂 |
昭和41年(1966年) | 18 | 京都 | 広島大学 | 1位 | 中村雄二 | 土肥雪彦 | 岩森 茂 |
15回 (S38年 1963年 金沢)
15回 (S38年 1963年 金沢) 決勝京都府立大に2:0で勝ち 3回目の優勝
主将 清水裕弘
監督 児玉求、 部長 岩森 茂
16回 (S39年 1964年 神戸)
16回 (S39年 1964年 神戸) 決勝 岡大に勝ち 2連覇 4回目の優勝
主将 西亀正之、 監督 児玉求。部長 岩森 茂
S38年 林浩二、 S39年 若山、田中求と高校サッカー経験者が入部,、広大の全盛期が始まる
。
この頃より、何人かは広大本部サッカー部の練習、試合にも参加。
17回 (S40年 1965年 小野田)
17回 (S40年 1965年小野田) 決勝 金沢大に勝ち 3連覇 5回目の優勝
主将 井原俊彦
、 監督 土肥雪彦、部長 岩森 茂
18回 (S41年 1966年 京都)
18回 (S41年 1965年 京都) 決勝 熊本大に勝ち 4連覇 6回目の 優勝
主将 中村雄二
、 監督 土肥雪彦、部長 岩森 茂
広島大学医学部三十年史 児玉 求、西亀正之 五十年史 茶播隆之、林 睦雄 記
昭和42年(1967年) | 19 | 鹿児島 | 広島大学 | 1位 | 林 道義 | 茶幡隆之 | 岩森 茂 |
昭和43年(1968年) | 20 | 名古屋 | 広島大学 | 1位 | 黒田義則 | 岡田 宏 | 岩森 茂 |
昭和44年(1969年) | 21 | 大阪 | 広島大学 | 1位 | 林 浩二 | 益田 厚 | 岩森 茂 |
昭和45年(1970年) | 22 | 岡山 | 広島大学 | 1位 | 林 睦雄 | 西亀正之 | 岩森 茂 |
19回 (S42年 1967年 鹿児島)
19回 (S42年 1967年 鹿児島) 決勝熊本大に勝ち 5連覇 7回目の優勝
主将 林道義
、監督 茶幡隆之、部長 岩森 茂
1回戦でGKの奥平 鎖骨を蹴られ骨折、急遽宮岡がGKへ。
第1回 全医体(千葉) 千葉大に勝ち日本一 グランド横の宿舎で両チームで大酒盛り。
(東西の1、2位を集め日本一を決める大会で、正式にはこの年から開催)。
20回 (S43年 1968年 名古屋)
20回 (S43年 1968年 名古屋) 神戸大と決勝戦 6連覇 8回目の優勝
主将 黒田義則
、監督 岡田 宏、部長 岩森 茂
全試合とも雨の中、田んぼの中のような試合
第2回 全医体 (広島) 準決 広大 2:1 東大、千葉大 9:0 神戸大
決勝 広大 2:1 千葉大 2年連続日本一
東大には上妻、千葉大には三枝、篠原兄弟と医学部ではトップレベルの選手がおり、
広大は若山、林浩二がおり、当時の医学部のレベルでは最高の試合であった(新聞)。
広島大学医学部五十年史クラブ編 茶幡隆之、林 睦雄 記
21回 (S44年 1969年 大阪)
21回 (S44年 1969年 大阪) 決勝 7:0 で久留米大に勝ち 7連覇 9回目の優勝
主将 林浩二
、監督 益田 厚、部長 岩森 茂
大阪で盛大な飲み会 (岩森部長の同期先輩の配慮で大いに迷惑をかけた)
第3回 全医体は大学紛争で不参加 。
22回 (S45年 1970年 岡山)
22回 (S45年岡山) 決勝 2:1で大阪医大に勝ち 8連覇10回目の優勝
主将 林睦雄
、監督 西亀正之、部長 岩森 茂
前年より5人抜け、 秋には部員10名
西医体では怪我人、熱中症 などにて戦力低下したが何とか優勝した。
第4回 全医体 (広島) 準決勝 2:0 慶応大 、決勝 3:1 医科歯科大を破り 3回目の日本一。
昭和46年(1971年) | 23 | 京都 | 広島大学 | 1位 | 相模浩二 | 西亀正之 | 横路謙次郎 |
昭和47年(1972年) | 24 | 長崎 | 広島大学 | 1位 | 岡田芳和 | 西亀正之 | 横路謙次郎 |
昭和48年(1973年) | 25 | 金沢 | 大阪医大 | 3位 | 本家好文 | 横路謙次郎 | |
昭和49年(1974年) | 26 | 和歌山 | 大阪医大 | 2位 | 住田佳樹 | 宮岡繁樹 | 横路謙次郎 |
23回 (S46年 1971年 京都)
京都、相模キャプテン。同級生 松村茂次郎、児玉哲郎。新幹線が未だ開通していない時代、「ななうら号」で京都から帰広。この頃は西医体は23校ぐらいで、今の半分ぐらいでした。部員の数も今に比べると少なく、6年生が抜けると部内の紅白試合も難しいことがありました。
京都、西京極競技場。決勝戦 対岡山大学 前半 1-1 後半 1-0 得点者 影本 前半ループシュート、中塚 後半 右足で押し込む。高永甲が骨折していた右足に来たボールを止めると蹴れないと思いノートラップで蹴ったボールがゴール前で混戦となり中塚が決勝点を決めた。高永甲は痛みをこらえ最後まで試合に出場し、その後骨折が判明した。
24回 (S47年 1972年 長崎)
決勝戦 大阪医大。決勝点を入れた住田より得点場面のコメント。「当然、くそ暑い中、相手の大阪医大も頑張り消耗戦となった後半、相手のゴール前で混戦となりこぼれた球を右足で思いっきり蹴った。」
25回 (S48年 1973年 金沢)
26回 (S49年 1974年 和歌山)
細田は府中町で小児科開業、住田は呉市で整形外科開業、福島は内科開業するも平成19年に逝去、石川は神戸市で泌尿器科開業、本家は広島県健康福祉局で終末期医療指導。(管理人注:2022年時点、敬称略)
第二期黄金期から第三期黄金期へ
1975 - 1981
広島大学医学部サッカー部 西医体記録集
昭和50年(1975年) | 27 | 鳥取 | 広島大学 | 1位 | 原田光雄 | 宮岡繁樹 | 横路謙次郎 |
昭和51年(1976年) | 28 | 京都 | 京都大 | 2位(PK負け) | 高永甲文男 | 宮岡繁樹 | 横路謙次郎 |
昭和52年(1977年) | 29 | 久留米 | 2回戦敗退(金沢大学) | 谷山清己 | 田中求平 | 横路謙次郎 |
27回 (S50年 1975年 鳥取)
キャプテン 原田(津元)、同級生 浜中
決勝戦 大阪医大
決勝戦前日 原田キャプテンより「明日の決勝戦は自分の学年の最後の試合なので今まで試合に出たことのない浜中を是非出してやりたい。明日の試合はそれを実現したいので皆で頑張ってくれ。」
試合後。原田キャプテンのコメント「5-0とリードした残り20分ごろからキーパーの中村やほかのメンバーから、浜中を出場させろという声が沸き起こり、優勝の瞬間を浜中と抱き合えたことが一番の思い出である。」
1975年 第27回西医体 優勝 鳥取 がいな祭り
1回戦(リーグ) 4−0 名古屋保衛大医
2回戦(リーグ) 4−0 熊本大医
3回戦(リーグ) 1−0 関西医大
4回戦 4−1 京大医
準決勝 1−0 名古屋大医
決勝 5−0 大阪市大医
京大が走れるチームであること、 大阪市大の17番がボールが持てること。
愛媛には破壊力があること、 西医体は暑さに勝たねばならないこと。
祝勝会では宿舎のおばさんたちも大騒動、中村さんが皿を踏んで割って回った。
宮岡先生と「がいなー」と叫んでは万歳した。
夜行列車で帰ったが、よく覚えていない、広島駅では長岡さんと展望浴場へ。
学4:原田、濱中 学3:高永甲、影本、中塚、長岡、中村(真)、中村(文)、山田
学2:谷山、太田、福岡 学1:武田、竹本 進2:中野、原、塚原
進1:やーさん(市場)、すずらん芋(妹尾)、ウド(岡島)、猪八戒(澤村)
、
ジミー(下永田)、はらっさん(原田)、とっつぁん(石川)
28回 (S51年 1976年 京都)
1976年 第28回西医体 準優勝 京都
8月1日 広島出発、京都薬大グラウンドで練習
8月2日 試合見学、大谷大学グラウンドで練習
8月3日 2回戦 3−0 関西医大
8月4日 3回戦 3−0 鳥取大医
8月5日 4回戦 3−0 金沢大医
8月6日 準決勝 3−0 名古屋大医
8月7日 決勝 1−1 京大医 PK合戦で負け
体調がベストでこそ良いプレーが出来ること、 精神的にも強さがいること。
金沢がまとまっていること、 雨の日の試合の後は必ず休養がいること。
史上最強と信じていたチームが負けた 京都にはキッチリと借りを返すこと。
目標:中塚さんのスピード、エコさんの屈強さ、影さんの力強さ。
29回 (S52年 1977年 久留米)
1977年 第29回西医体 地獄 久留米
2回戦 1−2 金沢大医
強化練習から合宿へとあれだけ練習したのに、大事な緒戦で初めから疲れていた。
影さんに木っ端微塵に怒られた。
合宿から西医体までに調整が必要!
医学部相手ではスイーパーは中程度に深く、早くボールサイドに寄る。
本部を退部した(西医体と総理大臣杯が重なるため)。